名残の、(前編)
俺がそいつの顔を初めて見たのは、クリスマスに行われると言う、ここからバスで一駅ほどいった場所にある音大の学生によるコンサートのポスターだった。そいつ、ローデリヒの顔がでかでかと印刷されたポスターを見ていると、なぜだかすごくいらいらして、ちっと舌打ちしていた。年の頃なら同じくらいだろうが、全身ツナギを着てモップを片手に窓磨きのバイトをしている俺からすると、燕尾服を着てピアノを弾いているお上品なお坊っちゃんが癪にさわったのだ。気が付くと、持っていた油性ペンでそいつの顔に落書きをしていた。
まず鉄板の鼻毛だろ。それから額から出血させて、皺を増やすのもお忘れなく。
次には何を描いてやろう、そうにやにやと笑っていると、背後から鋭い女の声が聞こえた。
「ちょっと、何やってるんですかっ!?」
ぎくり、として振り向くと金の髪に緑の瞳、花の髪飾りが特徴的なえらくスタイルのいい女が立っていた。形のよい眉を吊り上げて綺麗なアーモンド型の瞳で俺を睨み付ける。
「信じられないっ!ローデリヒさんの麗しいお顔に何やってるんですか!・・・・・・・って、あれ?」
女はキャンキャンとわめきたてたのちに、俺の顔をじいっと見てきた。自分が悪いとはいえ、居直り睨み返す。こんなやつ、俺の知り合いにはいないはずだ。まるで何かを思いだすかのような目をしている女の顔に居心地の悪さを感じた。
「あなた、ギルベルト?」
知らないと思っていた女に名前を言い当てられて面食らう。
頷くと、その女は盛大なため息を吐き出したのだった。
「あなたねぇ・・・・・・・、久しぶりに会ったと思ったら何をしているの?」
「・・・・・・・誰だよ、お前は」
憮然として言うと、今度はその女の方が鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔をした。
「ちょっと、もしかして私のこと忘れちゃったの!? 小さい頃一緒に遊んだじゃない」
「あ?俺が女と遊ぶわけ・・・・・」
そこまで言って、一人だけ思い浮かぶやつが出てきた。ジュニアハイスクールに上がる前に姿を消した金髪碧眼のあいつ。
しかし、けれど。
目の前の美女は背筋を伸ばし胸に手を当てた。
「私よ。エリザベータよっ」
鼻息荒く言う彼女に背筋を伝う汗の感触。
その時に思ったのは、幼馴染みに出会った懐かしさでもなく、嫌な所を見られたという気まずさでもなく。
「お、お前、女だったのか!!!??」
という、驚きだった。
俺の知っている“リズ”といえば、腕っ節が強くて、髪をひとまとめにしていて、えらそうで、いつも俺に殴りかかってくるような奴だった。ジュニアハイスクールに入るのを契機に引越し、それ以来会うことはなかったが、あいつはきっとたくましい男になると思っていたのだ。
それが、
「なんで大きくなったら女になってるんだよっ!!」
だん、とバイト先の事務所の机をたたく。
ぎろり、とパートのおばさんが睨みつけてきた。
あのあと、くどくどと俺に畳み掛けるエリザベータに、たまたま通りかかった警官。厳重注意の上バイト先にまで連絡がいき、こうして事務所で反省文を書くハメとなってしまったのだった。
小さい頃の悪友が大きくなったら男になっていた。それは確かに驚くべきことだったが、よくよく考えれば“リズ”は女性の呼称である。記憶の隅に押しやったきり忘れていた彼女はよく俺を見て特定できたものである。
「あのねぇ、アナタ。反省はしてるの?反省は」
おばさんが説教の体制に入ったのを内心苦々しく思いながら時間が通り過ぎるのを待ち、結局その日は3時間もその場で小言を聞き続ける羽目になったのだった。
「ちっくしょ・・・・」
冷え切った空気に溶ける白い息すら腹立たしい。すっかり暗くなった道を家々の窓から漏れる灯りが照らしていた。
俺は灰色のマフラーで口を覆い、家へと続く白く舗装された道を急ぐ。さっさと帰ってフェリちゃんの美味しい手料理を食べて酒を飲んで・・・・・・。そんなことを考えて入った玄関先で、見慣れないダンボールが数箱目に付いた。誰か通販でもしたのだろうか。
しかし、だとしたらいつもならば各自の部屋にすぐさま持って行くだろう。
郊外に借りたこの一軒家で、俺は弟のルートヴィッヒと、俺たちの幼馴染でもあるフェリシアーノと3人で暮らしている。とりたてて広くもないが狭くもないこの部屋は玄関から入るとすぐさま螺旋状の階段が目に付く間取りとなっており、1階にはリビングとフェリシアーノの部屋、それから2階に俺とルーイの部屋、それから、この家の前の持ち主がヴァイオリニストだったということがあり、防音壁のついた部屋があったが、宝の持ち腐れと言うか、この家で流れる音楽と言えば俺のコンポからのロックかフェリちゃんの鼻歌くらいしかなかったので物置と化していた。
「ヴぇ〜、おかえりぃ〜」
ほわほわと、暖かい空気を発しながらフェリちゃんが俺を迎え入れる。
その笑みに一日の疲れが癒されたような気がしてにやにやと抱きつくと、その後ろからルーイが厳しい顔をして歩み寄ってきた。
「兄さん・・・・・、何してるんだ」
べり、とフェリちゃんを引き離すと、話すことがある、と踵を返す。
フェリちゃんがとてとてと後ろをついていき、つられるように俺もリビングへと入った。
そこにいた人物に目を丸くする。
おいこら、ちょっと待て。
「なっ、な・・・・・・」
ぱくぱくと口を動かすのに続きが出てこない。
その、今日一日の元凶となった顔は、写真そのままにすかした顔をして微笑んだ。温室育ちの奴ら特有のお高くとまった笑顔だ、と思った。
「初めまして」
言って手を差し出すそいつを眉をしかめて見つめ返す。
それから、弟を睨みつけた。
「なんでこいつがこんな所にいるんだよ!!」
腹の底から出した声に、その男、ローデリヒは目を丸くした。ローデリヒだけではない。フェリちゃんもルーイもだった。
「知り合いなのか?」
「知り合いも何も、こいつのポスターに落書きしたおかげで俺は今日3時間も説教されたんだっ!!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
アレ?3人の俺を見る目が心なしか冷たいよ?
フェリちゃんまで何なんだ、ソレ?
はぁ、と言うため息とともに言葉を発したのは他でもないローデリヒだった。
「何を言うかと思ったら・・・・・・・・。それはあなたが悪いのでしょう?このお馬鹿さん」
そのすました顔に拳を入れてやりたいと思った。
それがその男、ローデリヒ・エーデルシュタインとの出会いだった。
確かに、防音壁の部屋があるのなら音大生に部屋を貸してやる、と言うのは自然な発想だろう。そして、物置にしているとはいえ、大きなものもなく、すぐにでも人が入居できるような部屋はのだ。いつ誰が入ってきてもおかしくない。この借家の借主は一応俺だというのに、実質取り仕切っているルーイにより、これで家賃が安くなる、とは思ったのだが、それでも。
「なんでこいつなんだよ・・・・・・・・・」
ぶつぶつ文句を言いながら、その部屋から荷物を運び出す俺。