熟れた熱
繰り返し訪れ、何度でも新しく塗り重ねた約束の夜のことを、忘れることはない。曖昧に霞み、薄れていったのは一番始めの夜のことだけだ。後は全て覚えている。今、目の前で震える瞳の持ち主を忘れないこと、それが彼らを喰う、自分の義務だと思っていた。彼らを知る者が誰もいなくなっても、自分だけでも彼らの存在した証を繋ぎ留めておくことが、自分の義務であると。
始まりの王の次に標を持った人間を喰った頃、自分の姿はまだ人とは似ないものだった。自分の異形をその目に映し、時を待つ彼は震えていた。喉の奥、渇いた風の音をひゅうひゅうと鳴らしながら、歯の根を打ち合わせていた。
逃れられない夜だと知って諦めながらも、彼には自分を拒む光があった。捕食者に対する畏怖と嫌悪があった。彼の内側に満ちた光はこの上ないのに、彼は王のように、震えない声と笑みとで自分に語りかけることはなかった。
怖いなら目を閉じているといい、と自分は言った。彼は言われるがまま、目を閉じた。けれど、彼は震えて、恐れていたままだった。
何度も取り込んだ光によって自分が削りとられ、姿がより人に近づいていっても、王より後に見た標を持つ者たちは、変わらず自分を恐れていた。震え、蔑み、憎み、悲しみ死んでいった。
彼らの内の光を取り込むたび飢えと渇きは少しの間姿を潜めたが、自分の内にあるあの情景を想うたび、焦燥は逆に膨らんでいくようだった。夜明けを求める心は人を求めさせた。彼らの内の光に、触れたくてたまらなかった。彼らが、恐れていようと。
百年が終わると、次の百年が待ち遠しかった。あの瞬間、光に触れるあの瞬間が狂おしかった。
彼らは震えていた。泣いてもいた。恐れながら憎んでもいた。けれど諦めて受け入れ、その口で助けてと叫んだ。伸ばされた手は間違いなく自分を拒むもので、けれどそれすら差し伸べられたもののように見えた。その手をとった瞬間の、あの光、あのあたたかさ。あれだけが、自分の飢えを一瞬癒してくれた。
その瞬間だけを支えに、数えきれない百年をまたいできた。
→ 熟 れ た 熱 ←
契約の百年が近付くと、標を持って生まれてくるその気配が明確なものとなると、自分の口の上にのせる言葉がひとつ多くなる。百年を待つ間繰り返してきた、眠い、腹が減った、その中に、ひとつの名前が加わる。標を持つ者の、ルーフェンではない名だ。呪文のように、彼らが自分の目の前に現れるまで、そして自分の腹の中に消えるまで、夜が降りるまでを、自分はその名前を唱えて過ごす。口にのぼらせて声にした一瞬、暗い場所に薄く光が灯るような気がして、灯ったと思えば通り過ぎるその一瞬のために標を持つ王の血族の名前を繰り返した。 、 。
けれどその後に残るのはやはり、薄明りを呑み込んだどこまでも暗い暗い闇と、喉が渇く、空腹で身体がきりきりと締め上げられるような飢餓感だけだった。それでも、自分は繰り返す。たったの一瞬にも満たない短い刹那、少しだけ癒される光を求めて。 。 、 。繰り返し繰り返し、そして契約が履行された翌朝には、繰り返したその名前を二度と口にしなくなる。
ルカ。ルカ。
なのに不思議なことに、この名前だけは百年の夜をまたいでも、まだ口にし続けている。
どこか曖昧で掴みづらい標の揺らぎは、自分になかなかルカの存在を悟らせなかった。気づいた頃にはもう、彼は立って歩き、言葉を話せるようになっていた。そしてその頃、自分は自分の先遣りを睨みながら立ち尽くす子どもの名前を知った。ウルカ・ルーフェン。彼が目の前に現れるまで、契約の夜が近づくまで、自分は同じように彼の名を繰り返し唱えた。ウルカ、ウルカ。ルカがルカでいいと言ってからは、ルカ、と。空腹も飢餓も溶けたように消え、なくなってしまった今でも、不思議に繰り返している。
不思議に、ルカ、と声に出すと忘れていた空腹が蘇るような錯覚を感じる。けれどかつて口にするたび内に感じた光が一瞬だったように、それは感じたそばからすぐに立ち消え、代わりに眩しさだけが残る。ルカの顔を見ても、同じように腹が減る。そして同じように、振り向いたルカが笑うか、ユース、と自分を呼ぶとそれは消えて、ただただ、抱えきれないような眩しさが残った。不思議な名前。何度繰り返しても飽きない。
ルカ、ルカ。
「何だよ? 寝言で人の名前呼ぶなよ、びっくりするだろ」
「……ルカ?」
「他に誰がいるんだ?」
ルカの顔が上から自分を覗きこんでいる。その背中の後ろから落ちてくる、蛍光灯の光が眩しかった。逆光になったルカの顔は、けれどもどこか呆れたようなのがよく見えた。影が落ちて黒くなった輪郭の中、その深緑の瞳の色だけがより深く、鮮やかに感じられる。少しだけ寄った眉根の下にある瞳の緑色をぼんやりと眺めていると、ルカは小さく溜息を吐いて自分の顔の上でひらひらと手を振った。その手が前髪を掠めて、額にやわい風を感じた。
「おい、ユース起きてるか? 目ぇ開けたまま寝てんじゃねえだろうな?」
「……起きている」
ちゃんと口に出して疑問を否定したのに、ルカはまだ疑わしげな顔をしていた。ルカは考えていることがすぐ顔に出る。けれど時折、自分にはルカの考えていることがわからなくなる。
「おまえ、何で部屋で寝てんだよ? 授業終わってまっすぐ帰ってきた俺より早くてしかも寝てるって、おかしいじゃねぇか」
「……眠くて……」
「まさか、授業出てないのか? そんなんじゃ進級できねぇぞ」
少し怒ったようなルカの顔が一瞬揺れて、すぐ固定される。覗き込んでいた距離が近くなり、溜息を吐いたら互いに届きそうだった。ルカの両腕が二段ベッドの柵にかかっていて、床に膝をついてこちらを覗きこんでいるらしいのがわかる。先程から眉を寄せたままのルカが、口の中でぶつぶつと「マジで眠い眠い病じゃないだろうな?」と呟くのが聞こえた。ルカの言うことは、時にわからないことも多い。口にしないだけでそう思っている自分と違って、ルカはよく自分の言うことがわけがわからないと言うが。
「ユース」
ルカの声が名前を呼ぶ。その響きが、鼓膜に染みわたるように心地よいことに最近気がついた。躊躇いも、口の中で噛み砕いても飲み下せないような違和感も含んでもいない。自分が口に出し、出さないのと同じほど、呼んでくれないかとは思う。けれどそれも、口に出したことはない。
「何で、寝言で俺の名前なんて言ってたんだ?」
覗き込むルカと目を合わせようとすると、何故か追っただけルカは目を逸らす。眉は寄せられたままだ。今度は、少し困っているように見える。
「腹が……減ったと」
自分のその言葉を聞いた途端、ルカはいっそう眉を寄せて、怒ったような顔になった。興奮と頭に血が上ったのを表すように、逆光にも頬に赤みが差す。日に焼けにくいという肌の下を流れる色が鮮やかで、擬似的な空腹が再び過ぎるようだった。ルカはすぐ怒る。以前はそれが王に似ていると思ったが、ルカはもっと感情的で、自身や相手といった、とても狭い範囲のために怒る。王とは――ルーフェンとは、そこが違った。
始まりの王の次に標を持った人間を喰った頃、自分の姿はまだ人とは似ないものだった。自分の異形をその目に映し、時を待つ彼は震えていた。喉の奥、渇いた風の音をひゅうひゅうと鳴らしながら、歯の根を打ち合わせていた。
逃れられない夜だと知って諦めながらも、彼には自分を拒む光があった。捕食者に対する畏怖と嫌悪があった。彼の内側に満ちた光はこの上ないのに、彼は王のように、震えない声と笑みとで自分に語りかけることはなかった。
怖いなら目を閉じているといい、と自分は言った。彼は言われるがまま、目を閉じた。けれど、彼は震えて、恐れていたままだった。
何度も取り込んだ光によって自分が削りとられ、姿がより人に近づいていっても、王より後に見た標を持つ者たちは、変わらず自分を恐れていた。震え、蔑み、憎み、悲しみ死んでいった。
彼らの内の光を取り込むたび飢えと渇きは少しの間姿を潜めたが、自分の内にあるあの情景を想うたび、焦燥は逆に膨らんでいくようだった。夜明けを求める心は人を求めさせた。彼らの内の光に、触れたくてたまらなかった。彼らが、恐れていようと。
百年が終わると、次の百年が待ち遠しかった。あの瞬間、光に触れるあの瞬間が狂おしかった。
彼らは震えていた。泣いてもいた。恐れながら憎んでもいた。けれど諦めて受け入れ、その口で助けてと叫んだ。伸ばされた手は間違いなく自分を拒むもので、けれどそれすら差し伸べられたもののように見えた。その手をとった瞬間の、あの光、あのあたたかさ。あれだけが、自分の飢えを一瞬癒してくれた。
その瞬間だけを支えに、数えきれない百年をまたいできた。
→ 熟 れ た 熱 ←
契約の百年が近付くと、標を持って生まれてくるその気配が明確なものとなると、自分の口の上にのせる言葉がひとつ多くなる。百年を待つ間繰り返してきた、眠い、腹が減った、その中に、ひとつの名前が加わる。標を持つ者の、ルーフェンではない名だ。呪文のように、彼らが自分の目の前に現れるまで、そして自分の腹の中に消えるまで、夜が降りるまでを、自分はその名前を唱えて過ごす。口にのぼらせて声にした一瞬、暗い場所に薄く光が灯るような気がして、灯ったと思えば通り過ぎるその一瞬のために標を持つ王の血族の名前を繰り返した。 、 。
けれどその後に残るのはやはり、薄明りを呑み込んだどこまでも暗い暗い闇と、喉が渇く、空腹で身体がきりきりと締め上げられるような飢餓感だけだった。それでも、自分は繰り返す。たったの一瞬にも満たない短い刹那、少しだけ癒される光を求めて。 。 、 。繰り返し繰り返し、そして契約が履行された翌朝には、繰り返したその名前を二度と口にしなくなる。
ルカ。ルカ。
なのに不思議なことに、この名前だけは百年の夜をまたいでも、まだ口にし続けている。
どこか曖昧で掴みづらい標の揺らぎは、自分になかなかルカの存在を悟らせなかった。気づいた頃にはもう、彼は立って歩き、言葉を話せるようになっていた。そしてその頃、自分は自分の先遣りを睨みながら立ち尽くす子どもの名前を知った。ウルカ・ルーフェン。彼が目の前に現れるまで、契約の夜が近づくまで、自分は同じように彼の名を繰り返し唱えた。ウルカ、ウルカ。ルカがルカでいいと言ってからは、ルカ、と。空腹も飢餓も溶けたように消え、なくなってしまった今でも、不思議に繰り返している。
不思議に、ルカ、と声に出すと忘れていた空腹が蘇るような錯覚を感じる。けれどかつて口にするたび内に感じた光が一瞬だったように、それは感じたそばからすぐに立ち消え、代わりに眩しさだけが残る。ルカの顔を見ても、同じように腹が減る。そして同じように、振り向いたルカが笑うか、ユース、と自分を呼ぶとそれは消えて、ただただ、抱えきれないような眩しさが残った。不思議な名前。何度繰り返しても飽きない。
ルカ、ルカ。
「何だよ? 寝言で人の名前呼ぶなよ、びっくりするだろ」
「……ルカ?」
「他に誰がいるんだ?」
ルカの顔が上から自分を覗きこんでいる。その背中の後ろから落ちてくる、蛍光灯の光が眩しかった。逆光になったルカの顔は、けれどもどこか呆れたようなのがよく見えた。影が落ちて黒くなった輪郭の中、その深緑の瞳の色だけがより深く、鮮やかに感じられる。少しだけ寄った眉根の下にある瞳の緑色をぼんやりと眺めていると、ルカは小さく溜息を吐いて自分の顔の上でひらひらと手を振った。その手が前髪を掠めて、額にやわい風を感じた。
「おい、ユース起きてるか? 目ぇ開けたまま寝てんじゃねえだろうな?」
「……起きている」
ちゃんと口に出して疑問を否定したのに、ルカはまだ疑わしげな顔をしていた。ルカは考えていることがすぐ顔に出る。けれど時折、自分にはルカの考えていることがわからなくなる。
「おまえ、何で部屋で寝てんだよ? 授業終わってまっすぐ帰ってきた俺より早くてしかも寝てるって、おかしいじゃねぇか」
「……眠くて……」
「まさか、授業出てないのか? そんなんじゃ進級できねぇぞ」
少し怒ったようなルカの顔が一瞬揺れて、すぐ固定される。覗き込んでいた距離が近くなり、溜息を吐いたら互いに届きそうだった。ルカの両腕が二段ベッドの柵にかかっていて、床に膝をついてこちらを覗きこんでいるらしいのがわかる。先程から眉を寄せたままのルカが、口の中でぶつぶつと「マジで眠い眠い病じゃないだろうな?」と呟くのが聞こえた。ルカの言うことは、時にわからないことも多い。口にしないだけでそう思っている自分と違って、ルカはよく自分の言うことがわけがわからないと言うが。
「ユース」
ルカの声が名前を呼ぶ。その響きが、鼓膜に染みわたるように心地よいことに最近気がついた。躊躇いも、口の中で噛み砕いても飲み下せないような違和感も含んでもいない。自分が口に出し、出さないのと同じほど、呼んでくれないかとは思う。けれどそれも、口に出したことはない。
「何で、寝言で俺の名前なんて言ってたんだ?」
覗き込むルカと目を合わせようとすると、何故か追っただけルカは目を逸らす。眉は寄せられたままだ。今度は、少し困っているように見える。
「腹が……減ったと」
自分のその言葉を聞いた途端、ルカはいっそう眉を寄せて、怒ったような顔になった。興奮と頭に血が上ったのを表すように、逆光にも頬に赤みが差す。日に焼けにくいという肌の下を流れる色が鮮やかで、擬似的な空腹が再び過ぎるようだった。ルカはすぐ怒る。以前はそれが王に似ていると思ったが、ルカはもっと感情的で、自身や相手といった、とても狭い範囲のために怒る。王とは――ルーフェンとは、そこが違った。