熟れた熱
「あのなぁ、いい加減人を食いもんか何かみたいに思うのやめろよ。もうおまえはそういうのなくたって、生きてけるんだから」
「……すまない」
「本当にわかってんのかよ……」
「……ルカ」
何だよ、とルカは言った。まだ頬に赤みは残っている。不機嫌そうな形に作られた表情もそのままで、唇がわずかに突き出されて尖っている。ルカはすぐ怒る。自分はルカ以外で、こんなにもよく怒る王の血族を見たことがなかった。諦める前に怒って、自分や王に怒鳴り散らしたのはルカが初めてだった。だから、ルカの怒った顔は嫌いではない。頬に差した赤みも激昂に鋭くなる瞳の光の苛烈さも、眩しくてきれいだと思う。
まだ眠気と空腹で気怠いような右手を持ち上げて、指先でしわの寄った眉間に触れると、ルカは一瞬びくりと身を竦めた。触れた自分の指先がゆっくりと、刻まれた縦じわを解すように撫でると、それにつれてルカの肩に入っていた力も弛緩していく。先ほどまで怒った顔をしていたルカは、今度はまた、どうしていいのかわからないような、困ったような顔をしていた。眉間から瞼の上、眉との間にあるすべすべした、肌の薄い部分を撫でながら手が頬に下りると、手のひらにルカの体温が伝わってくる。赤くてやわらかい、空腹を呼び起こすようなきれいな温度だ。夜明け前には触れても触れられても、正気でいられなかったような温度に、こうして少しだけの空腹感を抱えて触れていられることが不思議だった。
「ずっと……おまえのことを考えると、名前を呼んでも、腹が、減っていた」
曲げた指の背で頬の稜線をなぞると、ルカはくすぐったそうに肩を竦めて、自分の手を取った。自分のものよりつくりの小さいルカの、まだ子どもの部分を残した手がやわらかくて温かい。
「おまえ、俺の顔見るたび腹減った腹減ったって、失礼だったもんな」
その言葉の意味を本当に理解してからは、ルカは自分がそう口に出すたび、怒ってばかりいた。それは今も続いていて、先程もそうだった。口では失礼だと言いながらも、実際にはもっと、違うところを怒っているように見える。それが何なのか、自分にはよくわからない。怒ったように眉を寄せて、頬に血の赤みを巡らせるルカ。契約が――ルカの言うところの約束が完了しても、ルカはまだ自分には眩しくて、その光がルカの内にあるものを悟らせない。知りたいと思うけれど、わからない。ルカが言うには自分は自分自身含めて人の感情の機微に疎いらしいから、他の人間ならわかるのかも知れない。そう思うことは少しばかり、自分の内に濁った重りを落とすようだった。
「おまえが生まれたことを知ってから、ずっと、おまえのことを考えていた。おまえが俺の前に現れるのを……待ち望んで、ずっと、おまえの名前を繰り返していた」
ベッドの上に半身を起すと、先程まで上にあったルカの顔を見下ろす形になった。自分の視点が上がるのにつられたように目線を上げたルカは、何故か呆けたような顔をしている。まだ触れ合ったままの手が離れないようにしながら、少し身を屈めてルカに顔を近づける。量が多くてまとまらず、あちこち跳ねた赤毛のつむじが見えた。
「ルカ、ルカ。……繰り返すだけ、腹が減った。なのに、何度も。腹が減って仕方がなくて、ますますおまえのことしか、考えられなくなった。……ルカ」
「な、何だよ」
声を裏返らせたルカは、怒ったような困ったような、どっちつかずの顔をしている。頬と言わず耳の先までが上った血の色で真っ赤に染まっている。やわらかかった赤い温度は、熟れた果物のように今にも張り裂けそうだ。内側から熟れすぎた果物がひとりでに皮を裂いて果汁を溢れさせるように、ルカが泣くのではないかと思った。決して自分と視線を合わせようとしないルカの緑色の瞳に熱が入って、潤っていたから。けれどルカがこんな顔をする理由が、自分にはわからない。
まだ触れたままだったルカの片手に左手も重ねて、両手で包み込むと、ルカは大仰に身体を揺らした。血の気がなく白いままの自分の指の間から覗くルカの手のひらまで、赤く染まっていた。
「……ルカ。今はもう、おまえを……喰いたいとは思わない。そのはずだ。なのに今も、おまえの名前を呼ぶと、腹が減る。おまえの顔を見ても。どうしてなのか、わからない」
「ユース」
戸惑いでいっぱいになった声で自分を呼ぶルカが俯いて顔を伏せてしまうから、包んだままの手に、指の間からはみ出して力なく下げられたままの指先を押し戴くようにして額に当てる。まだやわらかさの残った手は、指先までが熱い。髪の間から覗く真っ赤な耳の温度に直接触れているようだった。
「おまえの傍にいると、消えたはずの飢餓が蘇るような気分になる。だが、それを苦しいと思う以上に、もっと傍にいたいと思う。……ルカ、俺は、おまえに、」
「だああぁぁ! ストップ! ストップ!!」
触れたい、と口にしてしまうまでに、ルカは捉われてない方の手を突き出してわめきながら制止をかけた。不審な様子に伏せられた顔を覗き込むが、今度は目は逸らされなかった。その余裕すらないほど、ルカは困り果てているように見える。先程まであった怒りにも似た色が立ち消えて、代わりに何倍にもなった困惑がルカの顔から赤みを取り去らず、更に深めているようだった。自分は今度こそ、ルカが泣くのではないかと思った。緑色の瞳を囲む白目の部分にまで薄らと熱が溜まって、眦に涙が滲んでいる。首の側面もうなじまでも赤くて、そこに歯を立ててみたいような感情が疼く。ずっと抱えている空腹にも似た好奇心を、けれど自分は抑え込んだ。そうすると、本当にルカが泣いてしまう気がした。
「ルカ?」
呼びかけると、ルカはそろそろと顔を上げた。熱はまだ引ききらず、ルカはいろんな感情の中でぐるぐる回っているように見える。困っているのだと思ったが、それだけではない気がした。自分が知らない感情の中でずっとルカは走り続けているようにも、うずくまっているようにも見えた。制服の白いシャツの上から覗く首筋の中心で、息を呑む気配と共にまだ薄い喉仏が上下する。それすらも赤くて、今ルカの肌で赤くない部分はないのではないかと思う。
「勘弁してくれ」
ルカは呻くように言った。
「何でそうおまえは、そんな恥ずかしいことを真顔ですらすら喋れるんだ。生まれて16年、俺はこんなに羞恥心に苛まれたことはないぞ。せっかく生き延びたってのに、俺を殺す気か、おまえは」
「……どうして、ルカが恥ずかしい?」
「恥ずかしくないおまえが異常なんだよ!」
再びわめいたルカは、はずみで自分の顔を真正面から見るとすぐさまハッとしたように目線をさまよわせる。困惑だけでなくルカを真っ赤に染めている感情は、恥ずかしさや羞恥心というものであるらしい。またぞろ、自分が覚えたことのない種類の感情だ。そういう感情があると知っていることと、体験したことがあるというのは違う。
自分としては素直に思ったことを口にしただけで、もっと話をするべきだと言ったのはルカの方だ。なのにそうしたことで責められるというのは、理不尽な気がした。
「大体、そういうのは俺みたいな男にじゃなくてだな、もっと可愛い女の子とかに……」