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実存だけがしなかった

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 シズちゃんからあの怪物的な暴力がなくなってしまったのだと連絡を受けたときの俺の脳内にまず浮かんだのは、は?何言ってんの?と言う朴訥なほど純粋な疑念だった。
 は、何言ってんの新羅ねえそれ冗談にしちゃあつまらないって言うか質が悪いよいいやたち、じゃなくてね。しつが。悪質なんじゃなくて低質なんだよ。俗でも悪でも卑しくもないけれどでも無価値で無意味だよだってそんなねえ、シズちゃんが。シズちゃんのあの暴力が。シズちゃんを暴力的な怪物たらしめているあの力が。世界を退化させる人間の進化形のような、あの。
「事実だよ臨也。いいや、現実だよと言った方が正確かな」
 早く来なよ、と電話口から聞こえてくる声を最後まで聞かずに俺は携帯をぶち切った。

    ♂♀


 息を切らしてドアを叩いた俺を出迎えたのは黒衣の運び屋だった。彼女は表情の窺えない――そも彼女には表情を浮かべる顔からしてないのであるからこの発言は根本的に間違いなのだけれど――まま、身体を半歩ずらして俺に入るよう促した。靴を脱ぎ、その後ろについて歩く。
 きしきしとフローリングが揺れる。普段なら鼓膜を揺らしていることにも気付かないようなそんな微かな音が気にかかるのが酷く鬱陶しかった。まさか、なに、俺の精神が平常を欠いているとでも?もたらされた知らせのために。この先で待っている現実のために。そんな馬鹿な。
 覚えのある一室を開けると、そこにはいつも通りの白衣姿の友人と、その前に腰掛ける――金髪バーデン服の姿。
「やあ、いらっしゃい」
 友人――新羅はひょいと持ったカルテごと手を上げて挨拶を寄越した。そのそこそこ愛らしく整った顔も余裕げな笑みも、何らいつもと変わったところがあるようには見られなかった。少なくとも、俺以外の人間には。
 俺は見逃さなかった。黒縁眼鏡の奥の、己の好奇心と同居人への愛以外では石のように硬く冷たいままの双眸が今、困惑と恐懼に揺れているのを。それを、俺の観察眼は見逃してはくれなかった。
 俺はそれを見てから、ゆっくりと――視線を下ろし、金髪の男を見つめた。サングラスは外されており、作りだけならはっとするほど端正な顔が晒されている。
 俺は今までそれを目にしたことはなかった。俺を認識した瞬間その端正さは崩れ去り目にした人間全てに恐怖を植え付けざるを得ないような凶暴さを滲ませた表情を浮かべるはずだった。俺が観賞出来るのはそうして醜く歪んだものだけだった。そのはずだった。それでよかった。なのに。
 今の彼は――情報屋折原臨也の天敵にして唯一愛せない人の形をした生き物、池袋の喧嘩人形平和島静雄は――その秀でた眉間に皺を寄せることも滑らかな肌に血管を浮かべることも薄い唇を憤怒に歪めることもなく、ただただただただ平静に自然に普通に――そう、折原臨也を前にした平和島静雄には有り得ないはずの様で――本当に普通の、ただ当たり前にどこにでもいる人間のように平然と――俺の、折原臨也の姿をその瞳に映して、そこにいた。
(――これ)
 俺は思った。

 ――『これ』、は、だれ。

 身体中、髪の先から爪の先まで余すことなく詰め込まれた俺の今までの常識と言う常軌を感情と言う情動を論理と言う道理の全てをありったけ根こそぎ底辺から全部全部全部――滅茶苦茶に無茶苦茶に無理矢理にぶち壊されたかのような衝撃を、俺は受けた。
(こんな)
 こんな彼は知らなかった。こんな静かな、穏やかな、安らかな――優しい顔をした『彼』なんて。
 これは。
(――誰)
 かたんっと音がして、はっと我に返った。後じさった自分が扉に当たった音だった。
「――臨也」
 新羅が小さく俺を呼んだ。呼ぶ、と言うより、空気を揺らすために選択した音がそれだったと言うだけのもののように感じられたが、俺はそれに反応し、視線と意識を彼に戻した。
「……今本人への説明が終わったところだけれどね。何にもなくなってるよ。全くもって雲散霧消、きれいさっぱり――消えている」
 消えて。
 彼を――平和島静雄を異端に位置づけていたあの異常性の、その全てが。
「怪力、回復能力、耐久性、持久性、質量保存を無視しまくった静雄の特異性の全てと――あと、精神の不均衡」
「精神……?」
 呟いた俺に新羅はうん、と頷いた。当の本人は己の頭上で交わされている会話に興味なさ気にシャツのボタンを留めている。
「異様な沸点の低さと、キレたときとそうでないときの性情の差違さ。これはうちの父親の推論なんだけど、要すると――静雄の人格は、静雄の本能がその力をコントロールするために外部からの影響を全く取り入れずに構成したものだ、ってこと」
 初めて聞く話だ。俺は僅かに眉を顰めた。コントロール?シズちゃんがそんなことを出来ていた記憶は俺にはない。いつだって彼はその力を振り回して、振り回されているだけだった。猿に暴走される猿回しのようなものだったじゃないか。
 新羅はカルテでとんと肩を叩く。
「静雄の弟君は感情がない。いやあるんだけど、その起伏が少なくとも他者から観測出来るほど大きくない。もちろん傍から眺めてる他人ごときには解らなくても近しい人なら感じられる程度のものではあるのかも知れないけど――だって静雄は理解してたみたいだったし――でも静雄はそうじゃない。いや、喜怒哀楽のうち三つまでは確かに弟君と同じように凄く小さいんだ。些細なことを喜べるし、ちょっとしたことで哀しくなるし、下らないことでも楽しくなれる。でもその時彼が覚える感情は他人を十としたとき、そうだな――精々三くらいのものなんだよ」
 感情が小さいって、そう言うことさと、新羅はそこで一度言葉を途切れさせた。
 喜びも、哀しみも、楽しみも――少ししか、僅かしか、感じない。感情が生まれない。鈍感なわけではなくて――むしろ繊細なほど敏感に心は外界に対して反応するのに、その反応が、恐ろしく微弱である。
 心が、動かない。
 何故なら、それは――
「人間の身体とそれに属す力は脳脊髄神経によって大脳の運動中枢に支配されてる。しかし火事場の馬鹿力なんて手垢のついた例を出すまでもなく、それらは簡単にリミッターを外す。外界からの圧力、それによって引き起こされる感情の発露、激情の暴走、そのために」
 外界からの関与。
 それがプラスの方向であれマイナスの方向であれ、感情のぶれは、それによって生成される神経伝達物質は、筋肉の箍を外す。
 その箍があまりに外れすぎれば、身体は、そして脳は――呆気なく、その限界を突破するのだ。
 だからこそ。
「静雄は最初からそのリミッターがぶっ壊されてる状態だったわけだけどね。でもさ――だからこそ、だよ。喜ぶ度に、哀しむ度に、楽しむ度に、その天井と言うものがそもそも存在しない限界をさらに超えて、越えた力を発揮してしまう――それがどう言うものか、どう言う結果に繋がるか、判るだろ」
 俺はふらふらする頭で呟いた。だから。
「……『だから』、動かないの」
 せめて僅かでも己の力が発されることのないように――箍どころでなく、感情そのものを目減りさせた。
 新羅は肩を竦めた。馬鹿馬鹿しい、とでも言いたげだった。実際言うのだろう。森厳さんと違い、彼は平和島静雄の友人――なのだ。
作品名:実存だけがしなかった 作家名:上 沙