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実存だけがしなかった

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 彼を、観察対象としてだけでは決してなく――心配する立場を、採っているのだ。
「だって言うのが、まあ、親父の結論だったね。怒りの感情だけパロメーターがぶち抜けてるのは、感情全部を減らすと力を発散させる手立てがなくなって自家中毒起こすからじゃないかって。『怒り』を引き起こすようなもの相手だったら、力を振るってよしんばぶっ壊れたとしても精神にダメージ負うことは少ないだろうって言う本能の判断、てことらしいよ」
 全てを伝聞系でそう言った新羅の言葉に、俺はそれどころじゃない(現実逃避の一つだと言うことを脳みその隅っこの方が叫んではいたけれど)にも関わらず、例えば俺は当事者としては知らないが、側の運び屋と一緒にいるときのシズちゃんがデフォだったらと想像してみた。名前通りの、穏やかで、静かで、暖かい男――ピースとカーム、その名に相応しい、人間。そんなもの。
(持ち腐れ、だ)
 行使しなければどんな力にも意味はない。「やれば出来る」だなんてのは俺の一番嫌う言葉だ。やれば出来る?馬鹿らしい、現実世界においてやらないこととやれないことは同義なのだ。やらないのならそれはやれないと言うこと。そしてやらないと言うことは――自分の可能性を、選択肢を、未来を捨てると言うこと。
 それがどんなものであれ、全ての人間を愛する俺は全ての人間の未来を歓迎する。渇望する。それが例え、一代限りの変異種の、何をももたらさない破滅の力であったとしても。
(――なんだ、それ)
 自分で考えておきながら、自分で思い至っておきながら、自分の心でありながら、俺は自分が今考えたことが気持ち悪くて堪らなかった。なんだ、それ。
(俺は――俺は、シズちゃんの、あの力が)

 シズちゃんと、目があった。

「っつ、」
 先程のように亡と鏡のように無機質なそれではなく、俺を見詰める視線。俺は反射的に息を飲んだ。
 彼の眼は凪いでいる。弟君のそれより吊り眼気味で黒目が小さくきつい印象の、けれど恐ろしいほど凪いだ双眸。
 帆船の時代、船乗りたちが最も恐れたのは嵐ではなく凪であったと言う。べた凪。風と波が絶え、船が死ぬ。見渡す限り天も地も(いや地面ではなく海なのだけれど)青いそのただ中に、どこまでも遮るものも助けてくれるものもない青い青いただ中に、身動き一つ出来ずに粛然とすらして取り残される、所詮木切れを継ぎ合わせた程度のものでしかない一隻の船。無力な人間。無様な人間。
 身体中が痺れたように動かない。それこそ、彼の力で神経系にダメージを食らったときのように、指先一つまで凍りついたように動かなかった。
「――」
 彼はするりと立ち上がった。新羅を過ぎ、俺の目の前まで歩んでくる。
 き、とフローリングが微かに鳴った。
 俺は頭一つ半高いところにある彼の眼から視線を逸らさなかった。逸らしたら――堕ちる。そう思った。
「臨也」
 ――初めて、彼に名を呼ばれたような気さえ、した。
 いや、初めてなのかも知れない。こんな、怒りも、憎しみも、嫌悪もない、彼の声で名を呼ばれるのは。
 こんなに空虚に、俺の名が響くのは。
 いざや――と、彼はもう一度その音を紡いだ。
 俺は答える。
「……なあに。おめでとう、って言ってあげようか?それとも残念でした?どっちもだよね。君はその力をずっと忌んで拒んでたし、君はその力がなければ俺を殺せない。戦闘においてのスキル的な問題だけを言うなら君は俺より数段劣るもの。あの暴力があったからこそ俺を含めた他の人間を凌駕するスペックを確立出来ていたわけだから――勿論あの力が君からスキルを磨く機会と権利を奪っていたと言うことを否定する気はないけれどねえ、それでもやっぱり君は怠惰だったんじゃない?生まれ持ったものに胡座をかいていたんだよ。努力を怠ったんだよ。だから今君はもう俺を殺せなく――」
「いい」
 はっきりと、彼はそう言った。
「いい――もう、いい。なにもかもが」
「――は、」
 何がいいの、と思った。彼は続ける。
「もう――俺は、てめえが憎くねえ」
 今度こそ、息が止まった。
 シズちゃんは続ける。俺を見下ろして。空っぽな眼で。――当たり前だ、だって憎悪を取ったら、嫌忌を取ったら、彼の中に何が残る?――俺への感情の、何が。
「俺はてめえが嫌だった。てめえの言葉もてめえの身体もてめえの正義も全部胸くそ悪かった。俺はてめえが憎かった。てめえが楽しいと思うこと嬉しいと思うこと愛しいと思うもん全部が俺のそれと反対のところにあって、並び立たなかった。俺はてめえが鬱陶しかった。俺を化け物っつうてめえが俺を理解しないてめえが俺を受け入れねえてめえがそのくせ俺に興味を持つてめえが。本当にどうしようもなくどこまでもほんとうにほんとうにほんとうに――死にたくなるほど、殺したくなるほど、大嫌いでたまらなかった」
 大嫌いだと――大嫌いだったと。そう、過去形で語る彼の言葉にすら、感情はなにもこもっていなかった。
「てめえを嫌いだって気持ちだけは何があっても俺の中から失くならねえと思ってた。こんだけでかい感情がなくなる?ありえねえ。あるはずがねえ。それこそ『フツーじゃねえ』」
 こんなに長く、こんなに意味が通じる彼の言葉を聞いたのは初めてだった。紫煙と怒鳴り過ぎで嗄れた声が、なおも続く。
「俺がてめえを殺す日が来ても、つうか絶対来るはずだったんだが、でもそれはてめえが消える日であって俺の感情が消える日じゃねえ。てめえがいなくなっても俺はずっとてめえのことを憎み続けて嫌い続けていくんだろうと思ってた。だってそうだろ、俺の憎悪は俺のもんだ。てめえごときが奪えるようなもんじゃねえ。俺が八――いやもう九年か、それだけの間ずっと抱いてた感情がたった一匹のノミ虫ぶっ殺した程度で無くなるとかよ、ふざけんな。人間そんな簡単な生きもんじゃねえよ。罪を償うことと罰を受けることは全然違うこったし、ましてや赦されることはそれらと何の関係性もねえ。てめえが何百人の人間に狂気じみて信仰されて結果的にそいつらを救ってようが、てめえのオモチャにして死なせた人間どもが喜ばねえのと同じだ。俺が力を使って百人助けんのと百人殴ることが完全に並び立つのと同じように。そうだろ」
 俺は掠れた声で小さくそうだね、と呟いた。そうだねシズちゃん。君の言っていることは本当に正しい。吐き気がするほど正しい。相対性など欠片も挟む余地がないほど絶対的に構築された理論だ。まさしく一つの真理だ。他でもない君が――自己正当化も自己弁護も意図せずに――そう言うのだから、それは認められなければならない。
 彼は小さく口の端を歪めた。自嘲の形に。
「ああそうだよ。違うんだ。てめえへの憎しみは俺のもんだ。俺だけのもんだ――俺だけのもんの、はずだったんだ」
 そのはずだったんだ――吐き捨てるように彼は言った。くしゃりと顔が歪む。泣き出しそうな、怒鳴り出しそうな、笑い出しそうな、そんな顔で。
作品名:実存だけがしなかった 作家名:上 沙