雀の翼を甘く見た
1.指折り数えた手を開く
1.指折り数えた手を開く
図南の運命を引き寄せよう。翼を彼女に捧げよう。あげた翼で真っ直ぐ飛んで、できれば一度だけ振り返ってくれたなら、それでもういい。
きっと上手に、さようならと手を振って見せるから。
全ての理想はいつでも師の形を描いた。
あの人はひたすら鮮烈だった。見たこともない、けれど高度な技術の縫製の服を着て、辛い労働なんてまるで知らない手をしているくせに彼女は誰が相手でも丁寧に接していた。高級なものが相手でも怯むことなく享受して、湯浴みを好み、当たり前の様にちぐはぐな価値観を持っていた。敵とか味方とか分からないと困ったように笑って、そのせいか彼女のたてる策はいつだって優しい、犠牲の少ないものだった。
師は人命を尊ぶ人だった。敵も味方も分からないといった言葉に嘘はなく、彼女の策はどれだけ死者を出さずにすむかというその一点に的が絞られていた。もっと効率のいい方法があるだろうと思わず口からこぼれた献策は、しかし取り上げられることはなかった。
「花もボクを侮ってるの? それとも子供の言うことだから聞き流しておけばいいって思ってる?」
「違うよ」
「じゃあなんでうんって言ってくれないの、花の策も上策だけどそれでは敵を追い切れない。だったら守りをどこか一つ緩めてそこを叩いたほうが絶対に」
違うと首を振る師に焦れて声をあげる。興奮した子供特有の高い声は時に大人の癇癪を呼ぶものだ。そのうえ子供の言っていることが変に理に叶っているなら尚更その率は高くなる。けれど師は人に、まして子供に対して手を上げるなんてことはしない人だと確信していた。だからこそ負けてたまるかとますます声を張り上げた。逃走されて倍の数に膨らんだ敵に彼女が討たれるなんてことはあってはならない。いつでも二重三重に守られている師が窮地に立たされる可能性はわずかかも知れないが、わずかでもある以上見逃せるものではない。
「亮くん、夜だよ、ちょっと声抑えよう」
「絶対にいいよ、逃がした敵は何倍にもなってこっちに跳ね返って」
「ストップ、亮くん」
ぽ、と唇に落とされた柔らかい掌に怯んで止めてなどやるものかと思っていた言葉が思わず止まる。その様子に安堵したように息を吐いて、あの人はあのね、と目元を少しだけ緩めた。
「亮くんの言うことは最もだって思う。逃げた相手が多分また大勢を引き連れてきちゃうのもなんとなく分かる。でもね」
それでも彼女は亮の策をとりはしないのだと、何を言われるまでもなく表情で分かった。だから余計に耳をすませた。師に見えていて自分には見えていないものを知りたいと思った。彼女に会うまで自分に見えないものなどそれほど多くはないと自負していたから余計にその気持ちは強い。
「それじゃあ相手がたくさん亡くなってしまうでしょう」
「花、これは戦だ、人死になんて」
「亡くなってしまった相手にも家族がいるんだよ。お母さんがいてお父さんがいる。どうか無事に、将来は一緒に幸せにって願っている人だっているかも知れない。そういう人から、黄巾党はどう見える?」
瞬間息が詰まった。花の言葉は実体験だ。父を殺された己がそうだったように殺された相手の家族や恋人にとってその集団は間違いなく敵だ。
黙りこんだ頭を柔らかい掌でなでて、師は笑う。
「私はそういうの、嫌だなって思うんだ」
その言葉は彼女に着いていこうと決めた時の言葉と同じものだった。
それから二度同じことがあって、それで彼女に戦について提言することは止めた。これは何を言っても動かないと思い知ったからだ。彼女の中には強い信念があって、揺るがない覚悟があって、それが彼女を彼女たらしめる核の部分を強固に包んでいる。戦以外の献策は非常によく採用してくれたから、こちらの小さな自尊心と満足は充分に得られたし、だからこそ簡単にああそうかと思った。
彼女は死を嫌う。
戦死も事故死も病死も嫌う。理不尽な死の全てを嫌がった。負傷した兵士に授けた治療法は優れていた。破傷風を怖がり、疫病を警戒し、ちょっとした刀傷への対処にも清潔な水と布を欲しがった。
だから思ったのだ。頭で理解するよりずっと早く、心の、本能の部分ですとんと入った。
あれは天女だ。人外だ。湯浴みを好むのは清浄を好むからで、死を嫌うのは穢れを嫌うからだ。はたりとひらめく服を着て、彼女は運命を導きに来た。望む形にするために、天地をからから回すのだ。
だから行けない。一緒には行けない。
彼女の道の先に自分はいない。彼女が迷った時にいつもこぼれる師匠というのは自分には到底届かない存在で、自分には分からない場所で彼女を支えていて、だから。例え同じ道を選んだとしても、交じわるかどうかなんてわからなくて、だから。約束はこちらが一方的に押し付けたようなものだった。だから。あの人は人外で、天女で、理の外にいるもので。だから。
子供の小さなわがままをいつでも叶えてくれる人だった。これがしたい、あれが欲しいと試すように口にした欲求は拒否されたことがなかった。
寒いから外套を貸してと言えばあっさりくれた。眠る時に手を繋いでと恐る恐る請えば簡単にぬくもりをくれた。夜、星を見に行くという彼女に着いていくと言い張るとちょっと迷った後に結局頷かれた。
師匠ならどうするかな、とぽつりとこぼれた彼女の独り言に、師匠ってどんな人なのと突っ込んで聞いたら頼っていいかは分からないけど信じていい人だよと教えてくれた。
「頼りきったらすごく怒りそうだけどね。多分かなり厳しい人だから」
「多分? ほんとにそうかは分からないの?」
「わかんないんだよ。ほんっとに何考えてるのか分かんない人だし。すごく頭いいんだろうけどその分周りの人のこと考えないし。必要だと思ったらあっさり置いてっちゃうようなとこあるし」
師にしては珍しい恨み節も表情を見ればその心情を伺えることが出来た。
彼女にとって揺らがない場所にある人。助けてと声をあげたら手を貸してくれると彼女が確信している人。だからこそ頼りきるまいと己を鼓舞しているのだと分かる人。
「胡散臭くてふわふわしててね。でも本当はすごく優しい人だよ」
多分、とは言わずに話を締めくくったのがその証拠だった。
彼女が子供の願いを退けたのは最後の最後、よりによって一番大事な場面だった。僕も行くと張り上げた声は初めて駄目だと断られた。絶対という、あの人にしては珍しく強い言葉を使ってまで来るなと言い渡されてしまった。
だからせめてと叫んだ言葉に頷いてくれたかどうかは分からない。それでも彼女は誠意を尽くしてくれるだろう。あの人は子供の願いをたやすく叶える人だったから。もうそれで充分だろうとどこかで思う。もう、それでいいじゃないか。あの約束に満足して、もう終わらせてしまえ。だってあの人はもういない。だから。
だから、それがどうしたっていうんだ。
あの人を妻に娶ると決めたのだ。
いつもいつもそうやって吐き捨てるように誓いを胸に立てながら、子供は大人になった。
けれど。
手に入らないものだと最初から分かっていた気がする。でも決してこんな理由ではなかった。