雀の翼を甘く見た
それでもどうしたって最後にはそう思う自分にこれはもうどうしようもないな、と諦めて思考を放り投げた、その直後だった。
ふと、硬い、小さなものが動く音がした。表情を取り繕うことも思いつかないままふらりと向けた視線の先。
花がいた。
白くてつるつるに綺麗な膝を折って、辛い農作業なんて知らないような柔らかい掌を地面について、ぎょっとするほど露出度の高い、高度な縫製技術の装束に身を包んで、はらはらと肩から落ちる赤銅の髪をした花がいた。
目が真っ赤で鼻も真っ赤で頬も真っ赤で、何もかもを赤くながらそれでも指先は白かった。力の限りに地面に爪を立てている。それがまるでここにいたいがための執着に思えた。
ぼろぼろ泣いて師匠と言って、それでまたぼろぼろ泣く。細い肩が嗚咽に揺れる。小さな背中、ひらひらした、薄い衣装が夕暮れの風に揺れて寒そうだった。こんなに儚くて寄る辺がなさそうな風情なのに花は迷子には見えなかった。
どうして、と呟いたのは無意識だった。何してんのこの馬鹿弟子は、と思った。今までちゃんと全部の期待に応えてくれていたのに、孔明の願いも要望も全部叶えてくれたというのに、また、最後の最後、肝心要のところで花は孔明の願いを拒否してみせた。
それなのに花は泣くのだ。ぼろぼろ泣いて言葉もろくに出ないくらいに泣いて、お願いだから、なんて言う。
たくさん勉強して、役に立って見せるから、なんてつっかえながら言う。
(それはボクが言いたい)
十年前、花に提言しつづけた子供の願いだ。
お願いだからそばに置いてくれなんて泣いてみせる。
(だからそれはボクが言いたい)
ボクも行くと張り上げた声を撥ね付けられた時からずっと胸を痛め続けていた望みだ。
師匠と縋るように伸ばされた指が土に塗れて汚れている。小さな指。汚れていい指ではなかったはずだ。
(そうじゃないでしょう、花)
笑って帰るのが彼女の望みだったはずだ。
『何が、したかった?』
いきなり響いた声は天啓だった。かつての師が脳裏で笑う。それが今、目の前でぼろぼろ泣く弟子の姿に混じって溶けた。
望む形にするために、天地をからから回す人。穢れを嫌い、清浄を好み、孔明の行く道を示した人。
(そばにいてほしかった)
望む形にするために、ちりちり鳴いて前を向く子。戦を怖がり、甘いものを好み、孔明の行く道を必死で追いかけてくる子。
『何が、できる?』
(帰れない。あの子はもう帰れない。……帰らない、なら)
花。
(願いなんてそんなもの最初から)
そばに。
伸ばした花の手は取れなかった。手を取って笑ってなんて悠長なことはしていられない。だって花が寒そうだ。日暮れだというのに相変わらずの短い服で足をさらしている。細い肩は夜の寒さに耐えられるようにはとても見えない。
だからと引き寄せた体はそれでも思っていたより温かい。むしろ孔明の体をじわりと温めてくれるようだ。
腕の中に花がいる。いきなりの抱擁に驚いたように硬直して、そのくせまだ泣いている。
本が消えたから花は帰らない。帰れない。この世界の外に行けない。世界の理に組み込まれた。花はもう水に沈むだろう。
花が何を選択してもうんと頷く。それも孔明が決めたことだ。孔明からしてみれば愚かな選択だと心底思う。帰りたいって言ったじゃないかとも思う。こちらは夢だから帰りたいと最初に願ったのはなんだったんだよボクの胸の痛みを返せ、利子つけて返せとももちろん思う。思うけれどそれでも花はここにいる。孔明を呼んで泣く。
何で帰らなかったのかとわざとらしく嘆いてみせて、孔明は震えそうな息をなんとか逃がした。そうやって自分を作っていないと大声で叫びそうだった。
花は帰らない。孔明のそばにいる。弟子としてなんて健気なことを言って、孔明の気持ちを一生懸命尊重して、自分の気持ちを殺して、そのくせそばにいたいなんて小さな願いを頑張って通そうとしている。
一度解放を許された思考は驚くほど制御が利かなかった。
(花が手に入るんだって!)
(ボクが好きなんだって!)
叫んで両腕に力をこめたいのをこらえて驚かさないように慎重に言葉を紡いだ。ずっと好きだった。漸く許された言葉を告げたら途端にゆるりと胸の中に柔らかな熱を感じた。
花はぽかんとしているばかりでよく分かっていない。その思考が正しく結末に繋がるように言葉を重ねる。重ねるたびに胸が熱くなっていく。
嘘にしていい、なんでもいい。花が良いようにとっていい。いつもなら誰にも知らせずに煙に巻くところをそんな風にあけすけに告げたのはまだ孔明が思考の手綱を取りきれていないからだ。子供の様に思ったことを片端からほろほろ落としていくと背中に熱が灯った。
好きだと言われて思わず歯を食いしばった。知ってはいた。なんとなく感づいていた。それでも花の声で好きだと言われただけで涙が出そうになった自分に驚いた。
(もう駄目だ、詰んだ)
ようやく思考が落ち着いたというのにもう遅かった。逃げ道は綺麗にふさがれて、嬉々として花の可愛い策に嵌っている自分しかいない。
負けて嬉しいなんて初めての経験だった。