雀の翼を甘く見た
2.ちりちり鳴くならこちらにおいで
2.ちりちり鳴くならこちらにおいで
すぐに来い、いま来いと急かす手紙に孔明は思わず笑った。彼に文字を覚えさせたのは孔明自身だったが、奴の筆跡はお世辞にも美しいとは言いがたく、同時に心のうちを隠せるほど手馴れてもいなかった。現に今孔明の手元にある、来いと急かす書簡は荒れている。ああこりゃ相当度肝抜かれたね晏而、と一人ごちて青年はその書簡をかしゃかしゃ束ねた。
「亮! お前知ってたか今道士様が」
「知ってます知ってます。だから止まって晏而、声が大きい」
「てっめえ、これが落ち着いてられるか阿呆! しかも道士様全然年取ってないん」
「すとっぷだって。止まれ」
呼び出しに応じて、深夜、不意に孔明がその姿を見せたというのに、そのことに驚くことなく晏而が畳み掛けてきた。この男、言動は荒っぽいし顔は悪党そのものだし浮気性な上に酒好きだが、孔明にとって重要なことに頭の機転と器は悪くない。予告なく孔明が現れたというのにそのことについて驚く事がないのがいい証拠だった。さすが孔明がいるだろう場所に来いと書簡をよこせるだけのことはある。
けれどそれでも彼にとってかつての恋しい相手が現れたことは衝撃だったらしい。普段の晏而ならば二度は言わせないのに、止まれと言った孔明の言葉が届いていないらしかった。とにかく今はその勢いを殺したい。だからいつかに花自身が言っていた静止の言葉を敢えて投げれば思ったように彼は止まった。その姿がなんとなく微笑ましくも腹ただしい。過去、「ストップです晏而さん!」と他ならぬ彼女に言われていた頃もこの男はこんな風に急停止していた。というか、孔明自身もそうだった。胸に湧き上がる思い出を飲み下し、孔明は口を開く。このままでは彼は暴走してしまうだろうから、こちらが掴んでいることをほんの少しだけ見せておくことにした。
「あのね晏而。あの子はまだ雛だ。成ってない」
「成って? どういう意味だ」
「そのままの意味だよ」
分からないと表情で語る晏而を見て、星が光る夜空を見上げて孔明は軽く目を閉ざす。花はまだ成っていない。彼女の根幹は孔明や晏而がよく知るあの人と同じだが、そこを取り巻く信念と覚悟がない。芯が通っていない彼女の主張は笑ってしまうくらいにふにゃふにゃで薄っぺらく、奇麗事の域を出ないままだ。だからあの子はどう高く見繕ってもまだ雛だ。
けれど、と孔明は知らず口元をわずかに震わせる。羽扇を持っていたら間違いなく口元を隠していただろう。そのくらいには嬉しかった夜を思い出す。
けれど卵ではない。彼女はもう孵っている。
星見へと連れ出した夜、助けたいと言った彼女の目の光はまだ弱かったけれどそれでも火は確かに灯っていた。だから孔明はまだ待ってみようと思った。思えるだけのものを、彼女は孔明に示した。あの時、花は確かにちりりと高く鳴いた。まるで餌をねだるように。
だから孔明は目を晏而に戻した。ぽかんとした顔を笑ってやって彼を我に戻してから口を開く。今やるべきことは何かは、改めて自問するまでもなく簡単に出ている。要は二つ。
一つ、青洲軍に釘を刺す。今彼らに暴走されでもしたら成るものも成らない。未熟なまま共倒れして終わりだ。
「彼女はまだ何も知らない雛だ。乗っかっても一緒に堕ちてしまうよ。君たちが乗るにはあの子の翼はまだ狭い」
二つ、彼女の選択肢を狭めない。こちらは孔明が決めた天命だ。彼女がこのまま留まるというのならそれが彼女の選択だ。もし花が玄徳の元に戻らないと決めたならその時は孔明が玄徳軍に仕官して穴埋めをする。いつか戦場で会えることを夢に見て、そして孔明は天命を終える。彼女を帰すことは相当に難しくなるが、それでも花の選択肢をつぶしてはならないのだ。
「そしてもし彼女が戻らないといったら君たちの契約はそこで終了だ。その時の彼女は違うものに成っている。……飲み込めるかい? 晏而」
「わっけわかんねえんだよ、お前の言うことは! つまりあれか、あの道士様は俺らの道士様じゃねえってことか!?」
「うん、そうだよ。彼女はまだ、そうじゃない」
素晴らしい、と孔明は内心で晏而に拍手を送る。よくぞ読み解いた。やはり彼らを孟徳軍に置いていて正解だった。孔明と知り合って日の浅い人間ならば分からないと放り投げてしまうような彼の物言いにも呆れず、どころか的確に正解を拾い上げてくれる。阿吽の呼吸とまではいかないが、それでも肝心な場所は外さない。季翔もうまいが、それでも晏而のほうがより通じやすい。
今回も孔明の言いたいことをひょいと拾って噛み付いてきた晏而をさらりと流して頷いた。気心の知れた相手はこれだからやりやすい。
あっさり頷いた孔明を心底憎らしげに睨んで、けれど晏而は息を吐いた。こういうささいな動作で孔明は自分たちの間に流れた年月を思い知る。昔の、本気で花に恋をしていたころの晏而ならば、多分今孔明は殴られていた。
「まだってことはいずれそうなるってことか?」
「……あくまでかもしれない、だけどね」
そうか、と晏而がもう一度、今度は短く息を吐いた。で、と孔明を見つめる目はとても冷静だった。己の葛藤を飲み込んで、ただ主君のためにあろうとする者の目だ。盾にも剣にも毒針にでも、なれと言われたのならなろうと決めている忠実な目だ。
信じる目。孔明にはとても成り得なかった目。こうありたいと思う目。いつかあの人と永遠に別れる日が来た時に、自分がどうかこの目をしていますようにと孔明が願ってやまない、私心を捨てた美しい目だ。
「何をさせたい」
問う声は低い。策を問うのではなく、己の役割を忠実にこなそうとする晏而の言葉に孔明はさすがに抑え切れず苦笑を零した。晏而自身は自分は精々小役人にしかなれないと思っているようだが孔明からすればそれは過小評価だ。戦乱の世で一番才を伸ばしてくるのはこういう男だ。上の立場から降りていくのではなく下の立場から成り上がっていくのでもなく、その狭間で自分の限界を知っていて、己が職務を見失わない、そのくせ自分の感情に忠実な男。例えるなら玄徳がその極端な例だ。
やっぱりあの時邪魔して正解だったと十年前を思い出す。それから孔明は思考を断ち切るように瞬きをした。そうやって切り替える。頭の中で展開するこれからの想定で、晏而の手が必要なものを引っ張り出す。可能性が高いものはやはりこれだろう。
「近く、玄徳様の手の者が入ってくる。あの方は仁の方だから」
「ああそうかい。それで?」
「君、門番やって。季翔は見回り」
応えはそれは深いため息だった。お前なあと呆れた声で晏而はその難しさを見せてくる。知ってるかと先ほどとは少し違う言葉を使って晏而は新しい情報を孔明によこした。
「あの人が丞相にどんだけ気に入られてんのか知ってるか」
「ちょっとは聞いてるけど。なに、そんなに?」
それほどの執着だとは初耳だった。丞相自ら川に落ちた彼女を助けたという話は耳にしていたが、あの男が女人には呆れるほど甘いのも、珍しい物好きなのも知っていた。そして恐らくこれが最大の理由だろうが彼は花こそが己に辛酸を舐めさせた軍師だと悟ったのだろう。だから欲しくなった、いつもの人材収集癖が出たのだと勝手に推測していたが。