雀の翼を甘く見た
「昼も夜も手元において離さないって専らの噂だ。輿入れも近いだろうってよ」
「…………へぇ?」
相槌は妙に底冷えしたものだった。気に入っているらしいと聞いてはいたがあの赤い男の事だ、執着は刹那のものだろうと孔明はどこかで高を括っていた。手に入れてある程度愛でてそれで終わりだと思っていた。花はどこか浮世離れしているから目は引くだろうがそれだけだ。それだけだと思っていたのに。輿入れが、近い?
「それを、逃がす? 算はあるのか」
あの男がそれだけ意識を傾けている者を逃がすのかと晏而が問えば、孔明はつい、と口角を吊り上げて見せた。輿入れが近い? それはそれは。花を軍師ではなく、妾として見ていると? それはそれは。なるほどよく分かった。
つまるところそれは侮辱だ。あれだけ才気溢れる人をよくもまあそんな立場に追い込もうとしたものだ。仮にも伏龍の師になる芽を持つ人だ。あるいは一切を含めて敢えてそんな風に扱っているのかも知れないが、それでも駄目だ。
花はそんな風にしていい人ではない。花自身が選んだのならとにかく、他者が彼女を囲い込むなんて許されない。
「あるとも。君が見逃すんだよ」
「ああああああ、そうかそうか、わぁーったよ。つまり俺はこっからしばらく休みがねえってことだな!? 分かったからその顔止めろ! 無駄に怖ぇよ馬鹿!」
何もかもを飲み込んだ晏而の自棄気味の返答に孔明はただ笑う。笑うことで何とか平常心を取り戻した。そうすると申し訳なさもついてくる。孔明は今、玄徳の手のものが入って花を救い出すまで、極力彼女の回りを離れるなと命じたに等しい。晏而だけではなく、青洲兵全体に休むなと言ったようなものだ。申し訳ないと思う傍らで、その程度の事こなしてもらわなければ困ると思う自分がいる。あの子が成るかどうかの関門だ。成って欲しいならこのくらいの試練はさくさく乗り越えて欲しかったし、孔明自身もこんなことで悋気を起こしている場合ではないだろう。
ああ、そうか。不意にぽとんと答えが胸に降りてきた。知略に長けているせいなのか、自身の感情を置いていくことが多いから、思考の先で己の気持ちを悟ることが孔明には存外多い。
ああそうか。自分は成って欲しいのか。
なんだかんだと言いながら、結局孔明はあの人を待てることが嬉しいのだ。あの頼りない雛が行って欲しい方向へ歩き出していることがこんなにも嬉しい。邪魔する相手が腹立たしい。
やはり自分には晏而のような目をすることは難しいかも知れないと思い知った。ただ思い知っただけで、それでどうにかなるものでもなかったが。それでも執着を隠す鍛錬を怠ってはならないのだということだけは胸に忘れず刻んでおいた。花のためにできることが一つ増えた。それが単純に嬉しい。
「よろしくね」
「おっまえ、ほんとに嫌な奴に育ったよな!」
晏而のその言葉を背に公明は闇の中へと姿を消した。
「……面倒な大人に育ちやがって」
暗示の最後の捨て台詞を拾うものは誰もいなかった。
もし孔明に最後の言葉が聞こえていたなら「成りたくて成ったんだよ」と返していただろう。