雀の翼を甘く見た
3.胸に蓋して背を伸ばす
3.胸に蓋して背を伸ばす
切られた。
それはもう見事にばっさり、きれいに切られた。胸から血が噴きださないのが不思議なくらいだ。咄嗟に傷口を押さえるように胸元を握り締め、花はとにかく口を開いた。少なくとも一矢報いなければ師匠に面目ないという思いだけで出した言葉は覚えていないがそれでも相手の顔が引き攣ったからなにか言えたのだろう。ならばそれでいい。後はみっともないところを見せないように離れるだけだ。
花は頭を下げてその人物の横を通り過ぎる。足取りはいつもどおりでも口元がどうしてもゆがんでいくのが分かるから咄嗟に外套の袖で口元を覆った。脳裏に浮かんだのは呉の食えない軍師の姿だ。
口元を隠されると意外と表情が読めなくなる。はさりはさりと羽扇を仰ぐかの人の姿が浮かびかけたところで彼女は意識して思考を止めた。今それは危険だ。こらえてきたものが無駄になる。
不自然にならないように呼吸を深く繰り返しながら花は逃げ場所を探した。本当は自室に帰りたかったが今はまだ仕事中だから叶わない。かと言って馬鹿正直に執務室に戻るわけにも行かない。今の状態で彼に会えるわけがない。瞬時に見透かされてしまう。
いつもどおりに歩きながら、けれどいよいよ口元の歪みがはっきりし始めたころ、花はするりと空き部屋に逃げ出した。
「さすがの伏龍も女には弱かったと見える」
「あなたが師事したいという人は女性に篭絡されると?」
瞬間的に交わされた会話に孔明が思ったのはあの子も言うねえ、という感心だった。
いつも優しい言葉を柔らかい声でふやふや使っているから誤解されやすいが、花はれっきとした軍師である。性根が優しくとも、また感情が表情に出やすくとも、彼女は天地を読み人心を掌握することを生業としてここにいる。本人はまだまだだと思っているだろうし、孔明も甘い師匠ではないので当人に言うつもりはないが、あの少女は根が軍師だ。一方的に叩かれて終わりにはしない。優しい子だから通常はやらないだけで人の泣き所はあれできっちり押さえている。
さて、と孔明は目の前に立つ主君を見た。恐らく彼も今の会話を聞いただろう。戸惑うようにこちらを伺い、孔明が動く様子を見せないことに眉を寄せ、花の背中を追おうとでも言うのか、それともこちらに気がつかない様子の新人に何か言おうとでもしたか、よろめくように右足をふらりと動かした。
それは、困る。
「必要ございません」
「は、孔明、お前……」
「必要無いと申し上げました」
途端に玄徳の眉が先程よりもはっきり顰められた。不快と憤り、割合は恐らく後者のほうが高いだろう。何せ仁君だ。
「不当だと思わないのか。花は立派な軍師だ。それを女という理由だけで侮辱されたんだぞ。ましてお前の愛弟子だろうが、腹は立たないのか!」
畳み掛けるように続けざまに問われ、けれども孔明は静かにと口元を覆う羽扇を仰いだ。花が歩きながら口元を外套の袖で隠していたのを思い出す。あれ止めさせよう、狐さんみたいで不快。と内心で吐き捨てた。
「孔明」
答えを返さない孔明に焦れた玄徳が声を低めて名を呼んだ。動かしていた手をゆっくり止めて、孔明は改めて通路の先を見る。新人はどうやらいなくなったようだ。
「不当だと思うか、と問われたのであればはいと答えます。不愉快かと問われたならばいいえ、と答えましょう」
それからゆっくりと主君に目を戻す。どうやら動く気はなくなったようだ。それよりもこちらを問いただすことにしたらしい。
それなら困らない。
「不愉快どころではないと申し上げたく」
「なら」
「けれどこれは花にしか解せないものです。誰かが手を出したならそのこと自体が彼女をまた賤しめることでしょう。そら見たことか、所詮は誰かに庇いたてされる程度の才なのだと」
ですから必要ございません。
言い切ると玄徳の目が鋭くなった。分かっている、と吐き捨てられて、先ほどの動きは花を追おうとしていたものだったのだと孔明は確信する。そうだろうなと薄々分かっていた。玄徳は情に篤い。その類まれなる美点に隠れがちだが、彼は決して愚鈍ではないのだ。こういう噂から彼女を守る行為は下策も下策だとちゃんと把握しているくらいには、主君は聡明だ。
やはり止めて正解だった。
「慰めもか」
「然様です」
「孔明!」
咎めるように呼ばれて、孔明はもう一度羽扇を動かした。
「あの程度の事で慰撫を欲しがるような育て方はしておりません」
泣きはするだろうが。派手にではなく、肩を丸めて小さく小さくなって、引き攣るような嗚咽を漏らして泣くだろうが。けれどそれでも花は慰めを突っぱねるだろう。慰められたことこそを屈辱として彼女はまた傷を負う。弱いと自分を嫌悪する。こんなことで手を煩わせてすいませんと言ってしまう。優しい子だから。
それが分かっているから孔明は主君を止めた。下手な優しさは彼女を追い詰める。けれどそれを玄徳に言うつもりはなかった。花の性質は師である自分が知っていればいい。せいぜい厳しい師匠のふりをして、はさりと羽扇を動かした。教えない。見せない。あの子の弱ったところなんて誰にも見せはしない。彼女が嫌がるから。第一玄徳に告げた言葉に嘘はない。花は誰かに手を引かれなくてもちゃんと自分で進む子だ。
「立ち方を知らない童子ではないのです」
「お前、胸は痛まんのか」
憤りを超えて半ば呆れたように問われて、おや心外なと孔明は片眉を上げた。こういうことはわざとらしければらしいほどいい。煙に巻ける。
「切り裂かれたようですよ」
さてどこだ。
空き部屋だろう、恐らく。勤務中に自室に逃げ帰るような子ではない。芙蓉姫のところにも同じ理由で行かないだろう。あの子は働き者だから。人気の少ないほうを選択して、ああけれど泣きそうになっていたのならそこまで頭が回るだろうか。手に持ったいくつかの竹簡をなんとなく弄びながら孔明は耳をすます。花はきっと声をあげては泣かない。だから探すのは泣き声ではなく衣擦れだ。こぼれる涙を
拭う音。
あのあと、もういいと手を振った主君に頭を下げて場を辞して、孔明は一度執務室へ戻った。緊急を要する案件を二、三選んで、それを持ち上げてすぐに部屋を出る。もしかしたらその間に戻ってくるかと思ったが扉が開く気配はなかった。
ということは花は泣いたということだ。泣かずに済んだなら彼女は落ち着いたらすぐに孔明のところへ戻ってくる。
傷は、と孔明は思う。傷はついてしまうものだ。どれだけ心を砕いても、どれだけ守ろうとしても、対象を箱詰めにして持ち歩きでもしない限り、傷はついてしまう。つくなと願っても、もうこればかりはしょうがない。つくものだ。切られて叩かれ擦られる。自分ではない人間と、つまり他人と関わると決めたならそこは呑まなければならない。どれだけついてほしくなくとも無理な話だ。いちいち目くじらをたてていたらやっていけない。どれだけ不愉快でも、嫌でも、傷はつくものだ。大事なのはそれをどう活かせるかだ。
「……長い」