雀の翼を甘く見た
たらたら流れる己の思考に孔明は思わず小さく声を零した。傷についての自分の講釈への呟きだ。そのとおり、長い。自明のことをつらつらと垂れ流している。同じような言葉をいくつも繰り返しているのは繰り返すことで自分を納得させようとしているからだ。
そんなに嫌か。
内心に呟けば嫌だね、と即答を返された。花が傷つくなんて嫌だ。あの人が泣くなんて冗談じゃない。あの子は何より笑顔が可愛いのに。師匠、と明るく声をあげて欲しいのに、それが泣いてるなんてもう、もうそんなの絶対に論外だ。
その通りだと苦笑交じりに頷いたところで孔明の耳はやっとお目当ての音を捕らえた。距離にして八歩半先、部屋の中で扉が軋む音がした。
孔明はそのまま二歩下がって腰を下ろした。持ってきた竹簡をそっと開く。今音を立てたのが花以外の人間だとは思わなかった。心を砕いている相手を間違えるほど孔明は迂闊ではない。
目に写る文字に意識を傾ける。持ち込んだ仕事は少ない。花が落ち着くまでには余裕で片付けられるだろう。
案件のうち一つを通すことにした。二つは保留した。一つは子龍に確認が、もう一つは雲長の持っている情報が必要だ。厳密に言えば通した一つにも翼徳への助言が必要に思われたが、そこまでしなくても恐らくこれは大丈夫だと踏んだ。彼の人は文官に少し甘いし、飲んだくれの学友の能力を孔明は正しく知っている。健康のためにも忙殺させてやることを決めて、孔明は全ての竹簡を閉じた。軽く首を回して腰をあげる。もうそろそろいい頃合のはずだ。
「はーなー? 花―? どこー?」
わずかに足音を立てて歩き出す。それだけではまずいかと手近に見えた扉を開いた。当然誰もいなかったがそれでも声をあげた。張ってはいけない。花を呼んでいないときの言葉はあくまで一人言だ。
「あれ、この辺だって聞いたんだけどな……。花や―い、いないのー?」
「い、いますいます師匠。ここです!」
「あ、そこか。君、こんなとこで何してんの」
慌てたように出てくる姿を見ないために向けていた首をめぐらせて孔明は花を見た。目は、髪は、服装は。先を見通すことは得意でもいつだって非常事態は起こるものだから油断は出来ない。
いやちょっとなどと言葉を濁した花の姿は孔明の予想通りだった。
上下とも瞼は腫れていない。けれど白目がはっきり赤い。外套の袖口がわずかに色を変えている。剥き出しの膝小僧は白い。膝はつかなかった、では抱えたのか。指先も同じく白い。髪は乱れていない。けれど服のすそがわずかに乱れている。花は一人で泣いて、一人で立て直した。誰にも慰められていない。余計な傷はどうやらつかなかったようだ。
それらの情報を一瞬で読み取って、孔明は指を伸ばした。ここで話題にしないほうがかえって不自然だ。
「目、真っ赤。どうしたの」
「えと……」
目元に軽く触れられて花の視線が揺れる。言い訳を探すようにその黒目が右に動いて、孔明の動きを止めるように花の手が孔明に触れた。その手が冷たい。にわかに心配になって、体力ないんだから体冷やすんじゃないよと言い添えるとすいませんと花が俯いた。その動きで花の目元に触れていた孔明の指が離れる。追うことはせず手を握りこんで、孔明は答えを待つように小首を傾げた。花はうまく誤魔化せるだろうか。彼女が泣いた理由を何としても孔明は深追いはしないのだが。
「ちょっと、一人反省会を、ですね」
あ、うまい。孔明は思わず感心してしまう。嘘はつかず、けれど具体的なことは言わない。やはり彼女は軍師に向いている。
「ふうん? ま、いいけどね。反省するなら第三者を入れなさい。君、一人だとものすごく自虐的になるみたいから」
「はい」
神妙に頷いた花の頭を始末の終わった竹簡で軽く叩いた。かしゃんと軽い音を立てたものに反射的に手をやった花に指示を出す。
「ん。じゃ、顔洗ったらそれ子龍殿のとこ持ってって。こっちは雲長殿。で、雲長殿のとこから資料もらってきて。先月から三ヶ月前までの禄の奴」
「はい」
あっちに井戸があるよと指差した方向に歩き出した花の手首を掴んだのは完全に無意識だった。しまったと思ってももう遅い。不覚を取った。花が振り返る数秒の余地、さあなんといって誤魔化すか。
ああ、羽扇。
「忘れるとこだった、具合はもういいの?」
「は、具合、ですか?」
うんと頷いてみせながら先ほどの呆れかえった主君の顔を思い出す。あれは多分まだ心配を払拭しきっていない表情だ。ついでだ、あちらの懸案も拾っておこうと孔明は穏やかな口調であのね、と切り出した。
「玄徳様がね、心配してらっしゃったよ、大丈夫なのかって。君がこう」
こう、といいながら先ほど見た花と同じように孔明は袖口で口を隠してみせた。あ、と花が小さく声を出したのを確認してすぐに腕を下ろす。長くやっていたい所作ではなかった。狐と同じ仕草など御免被る。
「してたのをご覧になったんだってさ。だからお使いを頼みがてらちょっと様子を見にきたんだった、忘れてた」
「ああ、それで……。はい、大丈夫です。どこも悪くないですよ」
頷いた花に頷き返して、彼女にも分かるくらいの間を置いた。気づかれたことに気づいた花がわずかに肩に力を入れる。それを確認して、敢えて軽く、穏やかに問い掛けた。孔明は師匠だ。そこを履き違えてはいけない。
「口元を隠したかった?」
問えば花は一瞬だけ黙り込んで、けれど結局頷いた。そう、とその返事を流してから分かりやすく笑って見せる。何事もないように、心配などしていないように。
「だったら羽扇をつかいな。あれいいよ、胡散臭さが増す」
「胡散臭いって自覚あるんですか、師匠……」
「あるともー。演出の意味を分からないでどうすんの」
もう一度軽く笑って実演とばかりに羽扇を取り出した。口元を隠してはさはさ動かして見せると花の目が段々半目になってくる。
「ああでも君は表情に出やすいからねえ。羽扇で隠しきれるかなあ」
からかうように笑えば花がどうせ、と拗ねるように呟いた。その声にも顔にも暗い影は落ちていない。大丈夫そうだなと内心で頷いて、それじゃあと羽扇で進路を見せた。
「行っておいで。あ、ついでに玄徳様のところにも寄るといいよ、本当に心配なさっていたから安心させてくるといい」
「あ、はい。そうします。それじゃ、師匠、また後で」
はい気をつけてと手の代わりに羽扇を振って花を見送った。後姿は真っ直ぐで美しい。ちゃんと彼女はそこにいた。
(何を考えてるのか分からなくて)
確認するように口だけ動かして過去の花の言葉をなぞる。足は執務室へと向いていた。花に理不尽に絡んでいたあの男は恐らく彼女に言われた言葉に憤慨し、花への悪口雑言を撒き散らして周囲の評価を下げた後、孔明にもう一度弟子入りを志願しに来るだろう。簡単に諦めないのはある意味長所だが今回の場合は短所だ。そして彼の短所は諦めが悪い所だけではない。弟子入りを断った孔明の愛弟子である花を貶めることで自分の自尊心を守ろうとする男だ。怖いのは窮地に追いやられた時の牙だ。愚かな人間ほど土壇場で何をするのか分からない。
(周りの人間の理解を必要としていなくて)