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憎しみからはじめましょう

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網膜のきざはしに過ぎったのは、だから、たしかに薄桃色の何かだったんだろう。

いつもの、彼らの、彼らのための事務所的なマンションの一室という空間には、今現実的に二人分の人間の息吹しか存在し得ない。しかしてたしかに介在する二次元的気配をいくつも漂わせながら、折原はいつものように無表情めいた微笑をライフ・ワークとしつつ手元のネットブックでいくつかのキーを叩く作業をいかにも楽しそうに続けている。要するにたぶん、折原が興じているのはいつもの自分のサイトのチャット・ページだろう。
矢霧波江の手にはおちついたベージュの、先月おろしたばかりの上質なスプリングコートがかけられていて、今まさに「帰った」ばかりである彼女の、急な帰還に折原は少しも動揺なんてする気配を見せずキーボードを叩いているのでなんだか非常に憎たらしいような気持ちがする。

今日やるべき業務を終え、その存在自体が滑稽な演出にすら思えるタイム・カードを押して、退勤しようとしていた波江が戻ってきたのにはたしかにそれなりの理由があったはずだったけれども、このしばらく付き合ってみた折原という男の前では衝動とか憎しみとか怒りとか執着などの発露なんて無意味にひとしいことを少しだけだけれど波江は気づきはじめていたので、話の持っていき方にわずかばかり躊躇をする。……無論大体において昔から世界といえば「自分と弟とそれ以外」であった波江にとって、それはたしかな、客観的に見れば進歩らしい進歩ではあるのだけれども。
おまけにこの時期になっても白い煙を吐き出し稼働し続ける加湿器に上手に紛らわせていはするが、男の呼気からは、たしかな、微かなアルコールの気配がするので辟易をするしかない。折原は一体いつのまに飲んだんだろう。波江が一旦帰路に着き今住みかとしているホテルからここに戻ってくるまで、40分と経ってはいないはずだった。それにしても続きつづける折原のタイプ音には乱れやよどみが少しもない。それはもう、気もちがわるいくらいにだ。
「臨也」
波江は雇い主のことを人間的に尊敬などしていないから、いつだって好きに彼のことを呼ぶ。そのことについて契約違反だと言われたこともなかったし、また、不快だとはねのけられた覚えもない。だけれど波江は、ちょうど生理期間に些細に他人から蹂躙されたぐだぐだの自意識みたいに今、彼女の雇い主に対して名まえで呼び掛けることに対してすら嫌悪感を抱いている。――彼との距離なんて「ここ」から、1ポイントだって深めたくなかった。
「何。君の今日の仕事は終わったはずだけど、波江。……それともやっと俺に、鍋でもつくってくれる気になったのかな?」
折原の座す椅子は、たしか汎用的なただの回転する椅子だったはずなのだけれど、それでも折原はいつもとは違うトーンで発された波江の言葉に顔ひとつ、体ひとつ向けやしない。鍋だの何だのと宣う彼は今日は珍しく黒いふちのある眼鏡をかけていて、波江は、そのよく磨かれた凹面のレンズに自分の姿が歪んで映っている様を想像する。こんなあてどない子どもみたいな妄想なんていかにも「現実逃避」みたいだと、彼女は自分でもそう思う。理解する。確認をする。
「ないわ、そんな気」
「そう。残念だ」
「臨也、あなたね」
「何がかな?」
波江の毅然とした立ち位置は、部屋の事務所的スペースに据え付けられた扉のあたりから動こうとはしない。いざとなれば投げられたナイフを躱すことをすら念頭に置いた位置ではあったが、こんな距離は、最初にこの事務所に足を踏み入れた時以来のものかもしれない、と波江は思う。加湿器から水蒸気のような煙がたちのぼり、折原の陶器みたいに無表情な肌を一部だけ隠した。自分の手で何も行わない/何も扱えない、遊びと飲酒と放蕩だけを目的とした昔の欧州の貴族みたいな白い肌だ。

音が響いた。
いくつかの会話と素早いタイプ音しか響かない室内に、物質が床に触れるばらばらという音のみで折原への「回答」は姿を現す。――事務所の落とされたブラインドの隙間から、いくつかの車のバックライトがストライプ模様に差し込んで、したたかに夜の彼らを照らしあげていた。
波江の、スプリングコートを持ったのと反対側のてのひらからこぼれ落ち床に衝撃音を走らせた物質に、折原はようやく顔を上げて波江のほうに視線を向ける。フレームの縁に反していやに華奢い眼鏡のつるが、彼の目の代わりをするように、するどく波江の姿を検分している、ような錯覚。波江は臆さない。彼女と彼女の弟ふたりきりで成り立つ世界、そこから除外されたものすべてに、何を臆することがあろうものか!

「盗聴器と発信器。私のホテルの部屋の寝室に五つ、バスルームに二つ、トイレに二つ、鞄に一つ、コートの襟にも小型のものが一つ引っかかっていたわね」

波江は無表情に扉のあたりに佇んで、ただ自分が言うべきことを、実験結果のリポートを読みあげる人みたいにいつもの事務処理みたいに簡単に羅列してみせる。
波江の声も折原の声も、抑揚がないまま会話は続けられるので第三者から見ればずいぶんと奇妙なかんじだろう。それでもたとい怒りであれ、むしろ怒り的な感情を発露させてしまったならば、たちまちその逆上を折原に逆手にとられることは分かっていた。そもそも完結している狭い世界の中だけで生きる波江の感情の中で今、怒りみたいな感情が巻き起こっているかどうかも定かではない。無論発信器や盗聴器に対する弊害や、羞恥みたいなものの破片も、彼女の中に存在しないわけではなかったのだけれど。
「気がつかれるのが早かったね。意外と。さすが優秀な俺の秘書だ」
「そう」
「……それで? 君は、どうするのかな。発信器とか盗聴器とかを仕掛けていた俺を見限って、安全でない町に身をやつして、ここから去る?」
「そうしてほしい?」
「どちらでも。どちらが賢いやり方か、君は確かに知っているだろうけどね」
「やめろと言ってもまた、やるわね、あなたは」
「どうだろう」
折原の、人の感情をさかなでるにやにや笑いがそのいかにも特徴的な色合いを深めていた。かつん、という、気まぐれにかけられた眼鏡が外されテーブルに置かれ、彼の座った回転椅子が鳴くように軋むその連続した音。それに続けて波江の、3cmほどの短いヒールの良質な靴が、白いフロアに落ちた黒っぽい小さな機械を踏みしめる音が一度みじかく室内に響いた。靴の裏からはざらりとした無機的な感触がする。
蛍光灯の灯りを受けててらてらと虹色にひかる白い加湿器の、吐き出し続ける煙になんだかすべてが曇ってゆく。とめどなく、まるでバックグラウンド・ミュージックのように当たり前に続いていた、折原のタイピング音は今断絶したので波江の警戒心がにわかに強まってはとめどない。
ギィ、と回転椅子が大仰に軋み、立ちあがり、歩いてくる折原の靴音。武器なんて持っていませんよ、ということを誇示するかのようにゆっくりと広げられたふたつの掌を、波江はもちろん信じてなどいるわけがない。
作品名:憎しみからはじめましょう 作家名:csk