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憎しみからはじめましょう

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ついに三歩ほどに近まった、波江と折原の位置にしかして波江は――そうっとため息を零してみせる。折原のにやにや面に眼鏡はもうかかってはいない。彼の常用する、どこの国のものか知らない香水のにおいが、ほんの微かな苛立ちのしびれと共に波江の左腕あたりにダイレクトに届いた。

「ばかね。「優秀な秘書」に行って欲しくないなら、素直にそう言ったらいいでしょう」
「はは。俺、君のそういう根拠もなく強気なところはわりあい気にいってるよ」
「それはどうも」
おどけて抑揚が付けはじめられた折原の声に反して、波江の声はもはや、どこか静謐とした森の最中の湖みたいに澄んでいた。その水は人間が飲んだらたぶん死ぬような美しいもので、波江は、自分の声が存在が自意識がもっと透き通っていま対面するこの男が死ねばいいのにと、そればかりを夢に見る。
弟のみ存在できる彼女の世界に、このどうしようもなくどうしようもない青年が介在してきたことについてはまだ知らないふりを試みていた。たとえ怒りとか憎しみだとかそういう気持ちであったとしても、彼女の世界に、他の誰かが入る余地なんてないとまだ波江は信じているからだ。彼のもうかけられていない眼鏡に映ったいびつに歪んだ自分の姿は、だから多分妄想などではないんだろう。
折原の手が、すうと伸びた。
実験や雑務をこなすために短く切られ、やすりすらかけられていない波江の短い指より、彼の長めに切られた爪のほうがなんだかはるかに美しい。
波江のハイヒールの下で一度砕けた機械が更に、折原の靴で踏みつぶされる不快げな音が一瞬だけ響いた。事務所にはすでに夜が訪れている。

「……これどこでくっつけて来たの、波江」

会話の流れも波江の不機嫌さについてもすべてゆったりと無視をして、折原が触れたのは波江の、デコルテの大きく開いた細身のシャツの襟だった。近づいた彼の呼気からは紛うことなく、少量のアルコールを含んだにおいがしている。
彼のてんで見当違いの言葉に、この話はこれでお仕舞い、といったニュアンスが含まれていることを、波江は彼とのそこそこの付き合いの経験則から感じ取る。彼が今しなやかなつめさきで摘まんだ桜の花弁が、抑揚のない波江の感情を仮託した。たとえば。

美しくって刹那的でひとの心をさかなでるもの。発露したものすべてを、無表情に、嘲笑うように吸い取ってしまうもの。折原の目は黒い漆黒に、鉛筆の原石を思わせる鉱石の色の沼のうちに、いつだって無表情に沈んでいた。波江は襟からゆっくりと引き離される雇い主のてのひらを、鋭い音で、弾いてそこから薄桃色の花弁を引き落とす。話なんて終わらせてやるものではない。自分のペースに巻き込むことがこの男の有利性ならば、そんなもの、どうやったって破ってやるしかこの感情が収まる手立てはないのだろう。

「散々知っているだろうけれどこれだけ言っておくわ。あなたって最低ね」

網膜のきざはしに映し出された薄桃色は、波江の世界に入り込んできた人間の確かな証左として、これからも嫌悪感を呼び起こし続けるであろう確信があった。
折原はやはり、どうしようもない抑揚のなさで笑っている。波江はこの時間にすら残業代を請求することを、事務的な頭の片隅で考え続けて床に落ちた薄桃色の花弁をヒールで踏んだ。世界を閉ざすことに飽いたつま先からは、やわらかくて正体のない、後味の悪い感触がする。

10.0410
作品名:憎しみからはじめましょう 作家名:csk