たとえばこんな
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「あの、先輩。ひょっとして、あの方って…」
「あら、貴女初めてなのね。そう、あれが『ハンガリー』さんよ」
まだ大学を出て間もない新人女性官僚は、目を見開いて、回廊を行く『祖国』の姿を凝視している。
「びっくりしたでしょう?皆、最初はそうよ」
「…いえ。あの、『ハンガリー』さんの話は、祖父から、繰り返し聞いていましたので」
「ああ、確かに。あなたのお爺様なら、よくご存知のはずね」
今は現役を退いた彼女の祖父は、有能な軍人だった。ハンガリー人にしては珍しい色彩と、騒がしい性格を持った彼は、青年期にドイツに渡ってみっちり英才教育を受けた後、祖国ハンガリーのために生涯を尽くし、英雄とまで謳われている。
「こちらにいらっしゃるようよ。ちょうどいいわ、貴女をご紹介しましょう」
促され、近くで見た『祖国』は――祖父の話のとおり、毅然とした姿勢とやわらかな笑顔をもつ、美しいひとだった。
「…あら…?あなた、ひょっとして…」
『ハンガリー』が、きらきらした緑の目を見張る。あわてて礼をとり、名を告げると、彼女は、ああ、と感嘆にも似たため息をついた。
「…あの小さかった赤ん坊が…もうこんなにおおきくなったのね…!!」
「は、え?…あ、あの!祖父が、宜しくお伝え下さい、と申しておりました!」
深々と頭を下げる娘に、彼女は懐かしげに目を潤ませたまま、微笑む。
「――おじいさまは、変わらず、お元気?」
「え?…ええ!引退しても元気すぎて、困ってます!昔の軍人仲間と騒がしい曲作って歌ったり、夏のバラトン湖で競泳したり!ブログにはまって毎日何かしら書いてますし、最近は甘いものがお気に入りらしくて、アイス買って来いとかホットケーキ焼いてくれとかうるさいんです!先週は孫ばかりか近所の子どもや動物まで集めて本格的な戦争ごっこを教えたり…」
娘の言葉に、彼女は身体をかがめて涙を浮かべるほど笑いころげた。
「あ、す、すみません!こんな話お聞かせして…!」
「――いいの、いいのよ、聞かせてもらえて嬉しいの」
すっかり潤んで泣き声にも似た笑いをあげながら、幸福そうに、彼女は微笑んだ。
「ほんとに、いくつになっても――父親に、そっくりなんだから!!」
END