神のまにまに
僕がこの世で一番信じていないのは、他の誰でもない僕自身だ。
けれど残念なことに、僕は僕以外の誰かを頼る術を知らないし、不信感を抱えたままでも、僕自身と生きていくしかない。
ただ唯一の救いは、僕が僕のことをそれほど嫌いではないということ。
僕は不安定で不誠実な男だし、色々と拗らせて捻れてしまったままの性根は、もはや死んでも治らないだろう。
だが、そんな自分を、僕は決して嫌いではない。
何度も裏切られて、何度も絶望しているけれど、嫌いになりきれないからこうしておめおめと生きている。
大きな螺旋を描き、似たような場所をぐるぐると巡りながら、いつか辿りつく、おしまいの日まで。
親愛なる君と、再び出会えるその日まで。
寝覚めは最悪だった。
寝覚めが良かった記憶もほとんどないのだが、それでも今日は一段とひどかった。悪い夢を見たのかもしれない。思い出したくないけれど、思い出せないことにモヤモヤする。
「あら、カンちゃんおはよー!」
「ノブコ姉さん」
境内に響く鈴の鳴るような声。振り返ると、そこには大きな花束を抱えたノブコがいた。
この距離でも、むせ返りそうになるほどの芳香。
確かめるまでもない。僕はその花の名前をよく知っている。
「どうしたの、朝っぱらから辛気くさいカオしてるわねえ」
「僕はいつもこんなもんですよ」
へらっと笑って流したが、ノブコは誤魔化されてくれない。可愛い顔をして、意外とあなどれない。さすが二児の母だと言うべきか。
「そうかなあ……。カンちゃんって昔から、しんどいときほど顔に出ないし無口になる子だったから、ノブコ心配~」
そういう物言いが許される年はとうに過ぎているんじゃないですか、と言ってやってもいいけれど、後が怖いのでやめておく。
「ところでノブコ姉さん。そのご大層な百合の花束は何ですか? それを届けにウチへ?」
「そうよ、もちろん。毎年恒例のアレ」
わざとらしいかと思ったけれど、普通にのってきた。
「毎年恒例って?」
問い返すと、ノブコの表情が途端に曇る。
「……え? もしかして忘れちゃってるの……?」
ノブコの反応に、僕も思わず真顔になる。
どうやら答えを間違えたらしい。面倒なことになった。
昨年の事件直後は色々と混濁していた記憶も、今はほとんど整理がついているはずなのだが、ごく稀に、こうして欠落が見つかることがある。
僕は別に困らない。記憶なんてものは、どうせ劣化するようにできている。欠けていると言っても、日常生活に差し障るほどのものでもない。
だが、こうして親しい人に目の前で困惑されるのが、非常に困る。正直かなり面倒くさい。面倒くさすぎて、逃げ出したくなる。
「あー……、そうですねえ」
だからって逃げ出したりしないのは、僕がいい年の大人だから。
認めたくないけれど、僕はいい年した大人で、何もかも放り出して逃げ出すには、いささか柵が多すぎるのだ。
僕は、顎の無精ひげをぼりぼりと人差し指でかきながら、正しい答えを推測する。
白い百合から連想するもの。それは弔花だ。
そして、この時期に毎年恒例だと言ってこの神社にやってきたとなると、おおよそ答えは見えてくる。灰色の脳細胞の助けを借りるまでもない。
「もしやそれは、小雪の花ですか」
ぱっとノブコの瞳に光が戻る。どうやらこれが正解のようだ。
「思い出したの?」
「いや、まあ……、何となくそうかな、と」
「小雪ちゃんの好きだった花よ。毎年、命日の前に活けるの」
ああ、なるほど。そういうことか。
道理で、花の香りが届いた瞬間、ひどく憂鬱な気分になったわけだ。
芳しい大輪の白百合。
純白の凛とした艶姿。
言われてみれば、いかにも彼女の好きそうな花だ。
残念ながら、僕の好みではないけれど。
「それはご苦労なことです。妹のために、わざわざすみません」
「あら、他人行儀な言い方をするのね」
「そのつもりはないんですが、そう聞こえたなら謝ります」
わざとらしく肩を竦めると、ノブコは不満そうに口を尖らせる。
「もう! そういうとこは、結局ちっとも変わらないんだから」
「変わりようがありませんよ。僕は僕です。昔も、今も、これからも」
胡散臭い笑みを浮かべながら、上辺ばかりの無意味な言葉の羅列を口にする。
僕は僕を信じていない。
そんな僕が、僕は変わらない、などと嘯く。とんだ茶番だ。
だが、目の前の女性には、それが不満のようだ。
「うーん。それはそうかもしれないけど、でも、やっぱり変わったところもあると思うのよ。記憶のことを別にしても」
「へえ、そうですか?」
「うまく説明はできないんだけど、女のカン」
都合のいい言葉だ。けれど、その言葉には不思議と説得力があって、僕は苦笑いを浮かべる。
記憶を失う前の僕と、記憶を失っていた間の僕と、今の僕。それぞれの間には明確な境界線があるようで、目を凝らせば、その実ひどく曖昧だ。
だが確かに、僕は変わった。もっと正確に言うのなら、正体の知れない何かによって変えられた。
しかし、それをノブコに説明するのは難しい。また、その必要もないだろう。
「家には、母さんが一人です。暇を持て余してるんで、話し相手にでもなってやってください」
「カンちゃんは?」
「僕は見ての通り仕事中ですので、謹んでご遠慮申し上げます」
にっこりと微笑み返せば、ノブコは小さく肩を竦めた。
仕方のない子、とその眼が言っている。若い娘のような顔をして、ふいにそんな表情をのぞかせる。つくづく、女というのは怖い生き物だ。
花束を抱えて、ノブコは境内を横切っていく。
その後ろ姿を見送りながら、花の香はたなびくように遠ざかっていった。
失っていた記憶が蘇るのと同時に、失ったはずの能力までも蘇った。
その事実を知る者は、そう多くはない。元より言い触らす話でもないし、これといって使い途のない能力だ。
他人には見えないものが見える。しかも、見えるものを選り好みすることはできない。おかげで、しばらくは外を出歩くのが憂鬱でしかたなかった。
見えるものを見ないようにする。そうすれば見えないのと同じだ、とあの男は言った。詭弁だと思うけれど、ある意味、真理なのかもしれない。
子供の頃の僕は、そういったことを、ごく当たり前のようにやっていたのだろう。この年で改めて同じ感覚を取り戻そうとしている自分は、何だか滑稽な気もした。
色々なものが視界を通り過ぎていっても、意識には留めないこと。
考えてみれば、そんなことは能力があろうとなかろうと、人が世の中を渡っていく上で、当たり前にやっていることだ。
都会の雑踏の中を歩くとき、すれ違う人の顔など、いちいち確かめて相手が何者であるか意識したりはしない。要はそういうことなのだ、と僕は理解することにした。
けれど残念なことに、僕は僕以外の誰かを頼る術を知らないし、不信感を抱えたままでも、僕自身と生きていくしかない。
ただ唯一の救いは、僕が僕のことをそれほど嫌いではないということ。
僕は不安定で不誠実な男だし、色々と拗らせて捻れてしまったままの性根は、もはや死んでも治らないだろう。
だが、そんな自分を、僕は決して嫌いではない。
何度も裏切られて、何度も絶望しているけれど、嫌いになりきれないからこうしておめおめと生きている。
大きな螺旋を描き、似たような場所をぐるぐると巡りながら、いつか辿りつく、おしまいの日まで。
親愛なる君と、再び出会えるその日まで。
寝覚めは最悪だった。
寝覚めが良かった記憶もほとんどないのだが、それでも今日は一段とひどかった。悪い夢を見たのかもしれない。思い出したくないけれど、思い出せないことにモヤモヤする。
「あら、カンちゃんおはよー!」
「ノブコ姉さん」
境内に響く鈴の鳴るような声。振り返ると、そこには大きな花束を抱えたノブコがいた。
この距離でも、むせ返りそうになるほどの芳香。
確かめるまでもない。僕はその花の名前をよく知っている。
「どうしたの、朝っぱらから辛気くさいカオしてるわねえ」
「僕はいつもこんなもんですよ」
へらっと笑って流したが、ノブコは誤魔化されてくれない。可愛い顔をして、意外とあなどれない。さすが二児の母だと言うべきか。
「そうかなあ……。カンちゃんって昔から、しんどいときほど顔に出ないし無口になる子だったから、ノブコ心配~」
そういう物言いが許される年はとうに過ぎているんじゃないですか、と言ってやってもいいけれど、後が怖いのでやめておく。
「ところでノブコ姉さん。そのご大層な百合の花束は何ですか? それを届けにウチへ?」
「そうよ、もちろん。毎年恒例のアレ」
わざとらしいかと思ったけれど、普通にのってきた。
「毎年恒例って?」
問い返すと、ノブコの表情が途端に曇る。
「……え? もしかして忘れちゃってるの……?」
ノブコの反応に、僕も思わず真顔になる。
どうやら答えを間違えたらしい。面倒なことになった。
昨年の事件直後は色々と混濁していた記憶も、今はほとんど整理がついているはずなのだが、ごく稀に、こうして欠落が見つかることがある。
僕は別に困らない。記憶なんてものは、どうせ劣化するようにできている。欠けていると言っても、日常生活に差し障るほどのものでもない。
だが、こうして親しい人に目の前で困惑されるのが、非常に困る。正直かなり面倒くさい。面倒くさすぎて、逃げ出したくなる。
「あー……、そうですねえ」
だからって逃げ出したりしないのは、僕がいい年の大人だから。
認めたくないけれど、僕はいい年した大人で、何もかも放り出して逃げ出すには、いささか柵が多すぎるのだ。
僕は、顎の無精ひげをぼりぼりと人差し指でかきながら、正しい答えを推測する。
白い百合から連想するもの。それは弔花だ。
そして、この時期に毎年恒例だと言ってこの神社にやってきたとなると、おおよそ答えは見えてくる。灰色の脳細胞の助けを借りるまでもない。
「もしやそれは、小雪の花ですか」
ぱっとノブコの瞳に光が戻る。どうやらこれが正解のようだ。
「思い出したの?」
「いや、まあ……、何となくそうかな、と」
「小雪ちゃんの好きだった花よ。毎年、命日の前に活けるの」
ああ、なるほど。そういうことか。
道理で、花の香りが届いた瞬間、ひどく憂鬱な気分になったわけだ。
芳しい大輪の白百合。
純白の凛とした艶姿。
言われてみれば、いかにも彼女の好きそうな花だ。
残念ながら、僕の好みではないけれど。
「それはご苦労なことです。妹のために、わざわざすみません」
「あら、他人行儀な言い方をするのね」
「そのつもりはないんですが、そう聞こえたなら謝ります」
わざとらしく肩を竦めると、ノブコは不満そうに口を尖らせる。
「もう! そういうとこは、結局ちっとも変わらないんだから」
「変わりようがありませんよ。僕は僕です。昔も、今も、これからも」
胡散臭い笑みを浮かべながら、上辺ばかりの無意味な言葉の羅列を口にする。
僕は僕を信じていない。
そんな僕が、僕は変わらない、などと嘯く。とんだ茶番だ。
だが、目の前の女性には、それが不満のようだ。
「うーん。それはそうかもしれないけど、でも、やっぱり変わったところもあると思うのよ。記憶のことを別にしても」
「へえ、そうですか?」
「うまく説明はできないんだけど、女のカン」
都合のいい言葉だ。けれど、その言葉には不思議と説得力があって、僕は苦笑いを浮かべる。
記憶を失う前の僕と、記憶を失っていた間の僕と、今の僕。それぞれの間には明確な境界線があるようで、目を凝らせば、その実ひどく曖昧だ。
だが確かに、僕は変わった。もっと正確に言うのなら、正体の知れない何かによって変えられた。
しかし、それをノブコに説明するのは難しい。また、その必要もないだろう。
「家には、母さんが一人です。暇を持て余してるんで、話し相手にでもなってやってください」
「カンちゃんは?」
「僕は見ての通り仕事中ですので、謹んでご遠慮申し上げます」
にっこりと微笑み返せば、ノブコは小さく肩を竦めた。
仕方のない子、とその眼が言っている。若い娘のような顔をして、ふいにそんな表情をのぞかせる。つくづく、女というのは怖い生き物だ。
花束を抱えて、ノブコは境内を横切っていく。
その後ろ姿を見送りながら、花の香はたなびくように遠ざかっていった。
失っていた記憶が蘇るのと同時に、失ったはずの能力までも蘇った。
その事実を知る者は、そう多くはない。元より言い触らす話でもないし、これといって使い途のない能力だ。
他人には見えないものが見える。しかも、見えるものを選り好みすることはできない。おかげで、しばらくは外を出歩くのが憂鬱でしかたなかった。
見えるものを見ないようにする。そうすれば見えないのと同じだ、とあの男は言った。詭弁だと思うけれど、ある意味、真理なのかもしれない。
子供の頃の僕は、そういったことを、ごく当たり前のようにやっていたのだろう。この年で改めて同じ感覚を取り戻そうとしている自分は、何だか滑稽な気もした。
色々なものが視界を通り過ぎていっても、意識には留めないこと。
考えてみれば、そんなことは能力があろうとなかろうと、人が世の中を渡っていく上で、当たり前にやっていることだ。
都会の雑踏の中を歩くとき、すれ違う人の顔など、いちいち確かめて相手が何者であるか意識したりはしない。要はそういうことなのだ、と僕は理解することにした。