改・スタイルズ荘の怪事件
わたしはその言葉に励ましを得て持論を続けた。
「部屋に入った人物が窓から侵入したわけでも、何らかの特殊技能を持っていたわけでもないなら、扉は夫人の手で開けられたことになります。そうであれば、夫であるアルフレッドの嫌疑は深まると思いますね。彼らにとっては自然なことですから。」
「そうかな。夫人は夫の寝室に通じる扉にも鍵をかけてたんだろう。それこそ不自然だと思うけど。あの日の午後、二人は激しい口論をしていた。男女のことだから一概には言えないとはいえ、可能性としては良くて半々じゃないの。」
「しかし、夫人自身が扉を開けたという点には同意してもらえるでしょう?」
ポアロはわたしの意見に茶々を入れた。
「可能性はね。まあ、鍵をかけ忘れて、明け方近くに気付いて後で鍵をかけた可能性だってあるけど。」
「本気ですか?」
「君が可能性の話をするからだよ。しかし、これも平行線かな。では、メアリのような意志の弱そうな女性が夫人と口論するのは、どういう理由があると思う?」
「確かにそれは奇妙ですが、別に重要ことじゃないでしょう。当てこすりですか。」
ポアロは非難の声をあげた。
「君が言ったんじゃないか。考慮に入れなくてもいいことなど一つも無いって。自分の都合でルールを変えるのは感心しないな。」
わたしはむっとして言った。
「それも、いずれはっきりしますよ。」
「ふん、そう願うよ。」
二人の間に何か険悪なものが漂い始めたとき、上空から奇妙な匂いがして、わたしたちは会話を中断した。夜空へと注意を向けた。
匂いの正体は、天高くにいる化生が身にまとう半透明の光羽が生み出す推進力のなごりだった。改良され尽くした生命の身体に破壊技術の粋を集約させた戦争の申し子。その牙で師団を砕き、咆哮だけで都市を壊滅させる文字通りの化物。
「機竜か。財団の新型だね。今度、実戦投入される予定の。」
「実戦なんてこの世界にはありませんよ。」
「君がそう言うと、悪い冗談にしか聞こえないな。」
ポアロはわたしの機械化された身体をじっと見つめた。わたしはその視線に含まれた何かを打ち払うように強い調子で言葉を発した。
「それが事実ですから。」
「あれで勝てると思うかい?あの爬虫類もどきの寄せ集めで。」
「機械兵から機竜への転換は時代の流れです。誰にも止められはしません。この世界は血を流しすぎました。」
「勝てるとは言わないんだね。」
わたしは何も答えなかった。それからポアロの小屋にたどり着くまで、わたしたちは一言も話さなかった。きっと、わたしたちを取り巻く光羽の匂いが、口を開く気を無くさせたのだろう。
玄関の扉の前に着いたとき、ポアロはわたしに入れとも帰れとも言わなかった。さっさと帰ろうかとも思ったが、あの匂いの森を帰るのも気が進まない。
わたしが部屋の中に置かれた安楽椅子に荒々しく腰をかけると、ポアロは何も言わずにわたしの上に座ってきた。不思議なもので、一時わたし達の間にあったぎこちなさはもう消えてしまっていた。
開け放った窓からはあの匂いが混じった爽やかな空気が入ってくる。黒々とした尻尾がわたしの身体をくすぐってきた。仕返しに上耳を触ると、ポアロはさらに身体を強く密着させた。
間が悪いことに、開け放たれた窓からこの小屋に向かってくる線の細い若い男を、わたしは目で捉えてしまった。無視したかったが、男の表情には恐怖と動揺が入り混じっており、只事で無いのは明らかだった。わたしは諦めて、ポアロに注意をうながした。
「おや、薬局のメースじゃないか。」
彼女は一瞬で艶っぽい雰囲気を取り払うと、窓から身体を乗り出して言った。頭上のポアロに気づかない若い男は、家の前で立ち止まると扉をためらいがちに叩いた。
「許す。上がってこい。」
ポアロの声は下僕に命令する主人のそれだった。
わたしは彼女に見つめられ、無言のうちに鍵を外しに一階に降りていった。扉を開けるとメースは怪訝な顔でこちらを見てきた。しかしその顔も、ポアロの前に立つまでの短い間だった。
「導き手【ディテクティブ】、どうか不躾な訪問をお許しください。お屋敷から戻られたとお聞きしたものですから。」
彼の顔にあるのはもはや畏敬の念だけだ。
「お前は、このボクに二度も許しを与えろと言っているのかい?」
そう質問され、恐怖に慄くメースに対して、ポアロはその心がけを褒め称えてやる。政府内部では絶対に見ないような露骨なアメとムチだが、彼には抜群に効いている様子だ。
ポアロは大陸で自身の活動の隠れ蓑に、「慎みの輪」という政府公認の団体を営んでいる。公称は会員数二億人を超え、クメル問題の解決を目指す統合政府市民の会だとされているが、実際は彼女を教祖とするカルト集団に近い。この粗野な人心掌握術はそこで獲得した技能なのだろう。
「お前は、ストリキニーネのことを聞きに来たのかな?」
メースはポアロの発言に驚いていたが、わざわざ無礼を承知で会いに来るのだから、スタイルズ荘の事件に関係だということぐらいはわたしでも察しがつくというものだ。
「ではやはり、ミセス・イングルソープはストリキニーネで殺されたのですね。」
彼が困惑の声を上げると、ポアロはすかさず耳元で何かを囁いてやる。それだけのことで、メースの顔は晴れ晴れとし、足取り軽く帰っていってしまった。たぶん、わたしが政府内部で流通している技巧を用いても、ここまでの効果は引き出せないだろう。
エリート職員が外では林檎も買えないというのは、一般市民が好む物語のフォーマットだが、事実無根というわけでもないらしい。
「あの男は検死審問で証言することになるだろうね。」
メースを送り出した後、ポアロはそれだけ言うと十五分ほど黙り込んでしまった。そして、何事も無かったかのように再びわたしの上に座りこんだ。
「何をそんなに考えていたんです?」
「気にしなくていい。ボクの頭が問題を作り出していたんだ。ありもしない選択肢を幻視したのさ。要は、この事件には大切なことが二つあるというだけの話だよ。」
「それは何です?」
「一つは昨日の気温。もう一つはミスター・イングルソープのもじゃもじゃの髭。」
「冗談か何かですか?」
「この事件そのものが悪い冗談みたいなものではあるけどね。しかし、ある程度は本気だよ。」
わたしは彼女と口論する愚を避け、気になることだけを訊ねてみた。
「もし検死審問がアルフレッドに有罪判決を出したら、あなたの推理はどうなるんです?」
「たぶん、有罪判決は出ないだろう。その瞬間になるまで本当の判断は出来ないとはいえ、まず間違いなくね。」
確かにアルフレッドが実質的には地元の名士である以上、陪審員たちが責任を回避するというのは十分にありえそうな話ではある。
「そういう意味ではないんだけどね。まあ、仕方が無いか。」
ポアロはある一点に不思議に拘っていた。それはドーカスが口論を聞いた時間についてだ。彼女は二度ほど、ドーカスの記録が三十分ほどずれる可能性について検討していた。
しばらくして、ポアロは振り向いて座り直すとわたしの首に手を回してきた。顔つきががらりと変わり、目は熱っぽく潤んでいる。
「お兄ちゃん【モナミ】。」
わたしは何か言おうとしたが、それは出来なくなされてしまった。
作品名:改・スタイルズ荘の怪事件 作家名:しかばね