改・スタイルズ荘の怪事件
「誰がかと言えば、犯人が。何故かと言えば、証拠隠滅のために。何時と言えば、ボクたちがこの部屋を出た一時間前より後ということでしょうね。扉の鍵は問題にならない。この部屋のシステムは、夫人の生体反応とリンクしていたようだから、今となっては針金程度で開けられる。」
ポアロは腹立たしげに尻尾を振るわせた。
「問題はそんなことじゃないんだ。わたしは忘れていた。本当にこうなることが予想出来ていなかったんだ。これが要石だった。ここを抑えておけば、明日の検死審問なんか問題ではなかったのに。だが、まだ何とかなるだろうか──こうなったら、どんな手を使っても。」
ポアロは狂ったかの様な勢いで部屋から飛び出していく。ジョンはあまりのことに反応もできず、ウェルズは呆然とした顔でこちらを見つめてきた。これくらいの奇行、彼女といれば日常茶飯事なのだが。
わたしは慌てて後を追ったが、部屋から出た時点で彼女の後ろ姿は既にどこにも見えなかった。
早足に階段のところまで行くと、メアリが顔だけを手すりから出して玄関ホールをのぞき込んでいた。彼女はわたしに気づくと、その体勢のまま顔だけをこちらに向けた。その顔はいかにも物言いたげである。
「ちょっとした錯乱状態のようなものです。お気になさらないで下さい」
わたしは力なく言った。上司の奇行を説明するのはあまり楽しい作業ではない。わたしは露骨に別の話題を振った。
「あの二人はまだ顔を合わせていないんですか?」
「誰のことでしょう?」
「ミスター・イングルソープとミス・ハワードですよ。」
メアリはこちらを見ながら、悪戯っぽく笑ってみせた。その姿は人妻というよりはまるで女生徒のようだ。
「大喧嘩になると思ってるんですね?」
「あなたは違うんですか。」
わたしはちょっと驚いて訊ねた。
「思わないですね。けど、火花くらいは散るのかも。それでも今みたいに、みんなで妙に黙り込むよりは。」
「ジョンはなるべく、二人を離しておきたいみたいですが。」
夫の名前を聞くと、彼女はすっと体勢を直した。
「ジョンらしいですね。」
「彼はいい人ですよ。」
彼女はしばらくわたしの方を見つめた後、びっくりするようなことを口にした。
「あなたは友達を大事にする人なんですね。素敵です。」
わたしは何か言い返そうとしたが、下の方から聞こえてきたポアロの声に気を取られてしまった。メアリは別に返事を期待していたわけではないらしく、さっさと向こうに行ってしまう。
ポアロは大声で事件のことを、こと細かく庭師に話していた。わたしは溜息をついて、急いで階段を下った。わたしの姿を見ると、ポアロはたちまち静かになる。
「賢明なあなたとは思えませんよ。これでは犯人の思う壺です。」
「そう思うかい、ヘイスティングズ。」
「当たり前ですよ。」
「了解、了解。君の言うとおりにしよう。」
「ちょっと手遅れな気はしますがね。」
「確かに。」
しょんぼりと恥じ入ってるポアロは変に可愛らしかったが、彼女の行為に呆れる気持ちは変わらない。
ポアロは一人になりたいと告げると、わたしを待たせたまま何処かに消えてしまった。動くことも出来ないないわたしは、小一時間ほどまぬけ面で庭を鑑賞する羽目になった。きつく言いすぎたかと思っていると、彼女は意気揚々という様子で帰ってきた。
「さて、ここを出ようか、わが参謀【モナミ】。」
「もう調べものは済んだんですか?」
「調べものというか、ほら。あれだよ。」
「ああ、生理現象ですか。」
ポアロはこちらを睨んだが、何も言わずに裏庭に通じるフランス窓へと歩いていった。わたしたちが窓の前に着くと、ちょうど外からシンシアが家に入ろうとしているところだった。ポアロはすみやかに脇に寄ると、彼女に先を譲った。
「失礼ですが、マドモアゼル、一つ質問をよろしいですか?」
窓を抜けたシンシアが訝しげに振り向いた。クメルに話しかけられるとは思っていなかったのだろう。
ポアロは粉薬の空箱をポケットから取り出した。
「イングルソープ夫人に薬を渡したことがおありですか?」
シンシアはゴーグルの機能を変更して箱を凝視する。そして頷いた。
「そうですか。ありがとうございます。では、これで。」
ポアロを抱え足早に屋敷を離れながら、わたしは何度もポアロの顔をうかがった。その顔には疲労の痕が刻まれていたが、不思議と屋敷から遠くなるにつれて、その目には気力が溢れてくるようだった。
「わが友【モナミ】、ちょっと考えていることがあるんだ。きわめて奇怪で、とてもありえないようなことを。だが、そうすれば全てをあるべきところに納めることが出来る。」
わたしは肩をすくめた。ポアロは優秀すぎて、現実を軽視し過ぎる傾向があるとひそかに考えていたからだ。今回の事件にそんな奇想が必要だろうか。
「つまり、シンシアが工場のための薬を夫人に横流していた。そういうことでしょ。まあ、工場は夫人の所有物ですから、その表現は正確ではないのかもしれませんが。」
ポアロはわたしの言葉をほとんど無視した。
「そういえば、もう一つ発見があったんだよ。ミスター・ウェーズが教えてくれんだけど。」
「何が見つかったんです?」
「一階のラボの鍵のかかった机から、夫人の遺言状が出てきたらしい。結婚前の日付で、おそらく婚約したときに作成したようなんだが、アルフレッド・イングルソープに全財産を遺す旨書かれていたらしい。」
「ミスター・イングルソープは何と?」
「知らなかったと、言っているみたいだね。」
「信じられない。」
わたしは顔をしかめて言った。
「彼を有罪だと信じているの?」
「当然です。次々と彼の有罪を実証する証拠が出ているじゃありませんか。」
ポアロは子供を見守る母親のような慈愛に満ちた目で、こちらの顔を覗き込んできた。
「証拠という面では、むしろ彼の無罪が示されているんじゃないかな。」
「本気ですか?」
「もちろん。」
「一つだけになら分かります。」
「ちなみに、屋敷にいなかったことは不利な証拠に属するよ。」
わたしのびっくりした顔がツボに入ったのか、ポアロは全身を小刻みに震わせている。
「それはどうして?」
「彼が急に理由にもならない理由で屋敷を出て行ったのは偶然かな。自分の妻が死んだ夜に、そんなことをしたら疑われるのが筋だろう。二つの可能性が考えられる。事件が起こることを知っていたか、秘密にしなければいけないような理由があったか。どちらにしても、彼が如何わしい人間であることには違いないが、疑わしきは罰せずという古い言葉もある。」
わたしは納得がいかずに首をふった。
「君とボクとでは立場が違うからね。意見の不一致も仕方が無いかな。いずれどちらが正しいか分かるだろう。とりあえずは別の側面に目を向けてみようか。寝室のドアに全て内側から鍵がかかっていたという事実をどう思う?」
ポアロは何か奥歯にものが引っかかったような言い方だ。
「数人で確認したことですが、ドアには確かに鍵がかかっていた。ですが、新しく書かれたばかりの遺言状は燃やされていた。あの夫人がその日のうちに決定を覆すような選択をするとは考えにくい。少なくとも、夜の内に誰かが部屋に入ったことは確実でしょう。」
「それが道理というやつだろうね。」
作品名:改・スタイルズ荘の怪事件 作家名:しかばね