改・スタイルズ荘の怪事件
「その通りです。」
「ラボの窓は開いていたと聞いていますが?」
メアリの口元がぎゅっと引き締まった。
「その通りです。」
「それなら、なかの声が聞こえないはずがありませんね。口論の最中ともなれば、声も大きいでしょうから。」
「かもしれません。」
「聞こえた内容をお話していただけますか?」
「実は、何も覚えていないんです。」
「声が聞こえなかったという意味ですか?」
「そうではなくて、声は聞こえたのですが、特段の注意は払わなかったのです。盗み聞きは良い趣味とは言えませんから。」
「しかし、何も覚えていないということはないでしょう?少なくとも、誰かが話していると認識はしていたのですから?」
メアリは黙り込んでいたが、その様子は動揺しているというよりも、冷静に次の一手を考えているように見えた。
「はっきりとは覚えていません。ですが、義母様が、夫婦の問題というようなことをおっしゃっていたと思います。」
ウェルズは満足げな様子だ。
「なるほど。ドーカスのアーカイブとも一致しますね。ところで少し気になったのですが、ミセス・カウンディッシュ、あなたは夫婦の問題が話し合われていると知りながら、そこに居続けたわけですか?」
わたしはメアリの目に雷光のようなものが走る瞬間を確かに見た。彼女の脳内では目の前の男が業火に焼かれているのかもしれない。しかし、彼女の返答は平静そのものだった。
「その通りです。わたしは本に集中すると雑音が耳に入ってこないものですから。」
「あなたは実に便利な耳をお持ちのようですね。」
ウェルズの口調には、メアリ・カヴェンディッシュへの疑念がありありと込められていた。だが、彼女はそんなものには気づかないという風に、可憐な笑みを浮かべている。どうやらメアリの方が役者は上らしい。わたしは心の中で彼女の評価を少し修正した。
次に呼ばれたのはシンシア・マードックだった。とはいえ彼女は価値ある情報を何も持っていなかった。あの騒動に毛ほども気づかず、メアリに起こされるまで眠りの中にいたのだから無理もない。
「テーブルが倒れる音は聞こえなかったわけですね?」
「はい、ぐっすり眠っていたもので」
ウェルズは彼女の方を見ながら言った。
「そのゴーグルには安眠作用もあるようですね?」
シンシアはその質問を無視した。ウェルズもそれ以上は追及せず、次のハワード・エヴリンの番になった。
エヴィは夫人から送られてきた手紙を提出した。わたしたちは前もってその手紙を読んでいたが、謝っているのか、いないのかすら判然としない、夫人の気位の高さを物語る以外には何の役にも立たない代物だった。
「残念ながらあまり参考にはならないようです。あの日の午後のことは何も書かれていない。」
手紙を見た陪審を代表する形でウェルズが言った。
「一目瞭然。」
エヴィの口調はどんな場面でも変わらないようだ。
「私の友は気づいた。騙されていたことに。」
「そんなことは手紙には書かれていませんが。」
「もちろん。非を認めない。いつものこと。彼女の癖。あまり感心しない。」
エヴィは陪審員の方をじっと見て抑揚もなく言った。
「時間の無駄。みんな知ってる。犯人は──」
ウェルズは慌てて彼女の言葉をさえぎった。
「どうも、ミス・ハワード。もう十分です。」
彼女は特に抵抗するでもなく証言台を降りた。どちらにもしても真実は変わらない。彼女はそう言っているようだった。
そして、この日最大の山場がやってきた。ウェルズが薬局店員のアルバート・メースを召喚したのだ。
言うまでもなく、昨夜おろおろしながらポアロを訪ねてきたあの青年である。彼は今日も落ち着きがなかったが、ポアロに微笑まれると憑き物が落ちたように平静になった。予備的な質問があり、ウェルズは遂に本題に切り込んだ。
「ミスター・メース、あなたは最近、処方箋のない人にストリキニーネを売りましたか?」
「はい」
「それはいつのことですか?」
「今週の月曜日の夜のことです。」
「月曜日?火曜日ではなくて?」
「はい、確かに十六日の月曜日でした。」
「誰に売ったか覚えていますか?」
わたしも含めた多くの人が、その質問に思わず息をのんだ。
「はい、ミスター・アルフレッド・イングルソープです。」
即座にアルフレッドに多くの視線が集まったが、彼はメースの証言にわずかに身体を震わせただけだった。
「いまの言葉に間違いはありませんね?」
ウェルズは念を押した。
「間違いありません。」
「あなたはいつもストリキニーネを処方箋なしで誰にでも売っているのですか?」
わたしの隣でポアロが小さく頷くと、それに励まされるようにメースは発言した。
「いえ、とんでもありません。ですが、お屋敷のミスター・イングルソープなら大丈夫だと思ったんです。処方箋は家に忘れてきたと仰られていたので。それに別に違法ではないんですよね?」
そう逆に訊ねられて、ウェルズは答えに窮した。議会でも希に取り上げられるが、ストリキニーネ含む幾つかの危険な薬物の販売に処方箋が求められるのは、拘束力のない慣例であるというのが統合政府の法解釈なのだ。
「しかし、一般常識を考えれば、褒められたことではありませんな。」
苦し紛れにそう言うと、ウェルズはメースを放免した。
そして、アルフレッド・イングルソープがついに召喚された。彼が証言台に移動するまでの間に生じた短い沈黙こそが、この審問の総意を暗黙裡に告げていた。わたしには彼の首には透明な縄がかかっているのが見えるような気がした。
ウェルズは単刀直入に言った。
「今週の月曜の夜、ストリキニーネを買いましたか?」
「いいえ。」
アルフレッドは平然と答えてみせた。
「それでは、今週の月曜にミスター・メースからストリキニーネは買っていないとおっしゃるんですね?」
「はい。」
「それなら、ミスター・メースの証言はどう説明されます?」
「勘違いではないですか。」
ウェルズはアルフレッドのあまりに落ち着いた様子に一瞬ひるんだ様子だったが、質問を続けた。
「これは形式的な質問ですが、今週の月曜の夜、どこにいらしたか教えていただけますか?」
「残念ですが、よく覚えていません。」
「何もですか?」
「究極的には、そういうことです。」
ウェルズの目は冷ややかだった。
「それは困りましたね。正直なところ、わたしにはあなたが証言を拒否しているように感じられるのですが。」
「そう受け取りたいのであれば、ご自由に。」
「知らぬ仲ではないので言いますが、発言には注意するべきですよ。ミスター・イングルソープ。」
「彼は自分の身の上に興味がないみたいだね。」
ポアロはつまらなさそうに言った。
確かにアルフレッドの態度は、法廷戦術としては下の下だった。これではまるで、逮捕されたいかのようだ。しかし、彼を更に問い詰めるでもなく、ウェルズはさっさと次の質問へと移ってしまった。
「火曜日の午後、夫人と口論があったそうですが?」
「それは誤解です。わたしは妻を心から崇拝していました。口論などするはずがない。くだらない作り話ですよ。そもそも、あの日の午後は家にいませんでした。」
「それを裏付ける証人はいますか?」
「わたしが証人です。」
作品名:改・スタイルズ荘の怪事件 作家名:しかばね