改・スタイルズ荘の怪事件
ジョンの顔に浮かんだ表情を見て、わたしは彼の正直さを思った。その気質では注意を払えば払うほど、墓穴を掘っているようなものだっただろう。
「どういう意味かな?」
「ちゃんと分かっているくせに。お互い様ってことにしましょう。私もあなたの人付き合いを指図する権利があるなんて言うつもりはないから。」
ジョンにはもはや、声を荒らげる気力も残ってはいないようだった。
「権利がない。私には権利がないというのか?」
彼の両手が弱々しく彼女に差し出される。メアリはその手の片方だけを両手で掴み込むと、笑顔で言った。
「ないわ。」
その場を去ろうとするメアリに、ジョンは諦めることなく追いすがった。彼のしぼり出すような声の中には、男のわたしですら惚れ惚れとさせる覚悟の響きがあった。
「メアリ、バウアスタインを愛しているのか?」
メアリは何かを言おうとして、だが何も言わなかった。最後にわたしが見た彼女の微笑は、故郷にあった仏像を思い出させた。老成と永久の若さの両方をかねそなえた不可思議な表情。
ジョンにもその笑みの意味が分からなかったのだろう。その顔はまるで石のように固まっている。
わたしはこの隙に後ろを堂々と通り抜けようとしたが、運悪くジョンがこちらを振り向いてしまった。しかし、しっかりとした足取りだったのが幸いしてか、彼はわたしがまさに今来たと信じたようだった。そして、わたしもジョンがそう信じていることを信じた。
「あのヘンテコな友人のところに行っていたのですか?しかし、変わった交友関係をお持ちですね。」
「優秀な人材ですから。」
「それは分かりますが──いや、失敬。それにしても人生というのは予想がつかないものです。」
「今回のことは本当に残念でした。」
「街の中ならどうとでもなりますが、明日には新聞という新聞に母の死の顛末が載るでしょう。しばらくは見世物に甘んじなくてはならないのかな。」
「ジョン、どうか気を落とさないで下さい。こちらでも出来る限りの口利きはしたつもりです。悪いようにはなりませんよ。」
ポアロのことが新聞に載るのはあまり芳しい事態ではないため、密やかに報道管制が敷かれているのは事実だった。統合政府から見れば、物理的に刷られた一万枚の文字列を回収する方が、世界中に分散した電子情報を書き換えるより困難なのだ。
「お気遣い感謝します。しかし、この場所で生きている限り、後ろ指を指され続けるのは確実ですよ。」
「そんなもの、時間が解決してくれます。」
「それはあまり期待出来ませんね。田舎というのは一つの生き物みたいなもので、外から来た記者には不親切ですが、中にいる私達にはとても親切にしてくれるものなんですよ。」
ジョンはまだ何かを言いあぐねているように見えた。おそらくメアリのことだろう。わたしはそしらぬ顔で、彼にこの際だから思いを吐き出すように勧めてみた。
「私はすっかり分からなくなってしまったんだ。母を毒殺したのはアルフレッドではなかった。なら誰が殺したんだ?誰もいないじゃないか──私達の他には。」
飛び出してきたのは思いがけない言葉だった。だが、彼の言っていることは屋敷の人間の声を代表しているのかもしれない。今まで何年も暮らしていた相手が殺人犯かもしれないのだ。彼らにとっては悪夢そのものに違いない。
消沈するジョンにかける言葉を探していると、わたしの中に一つの考えが閃いた。最初はただの気休めかとも思ったが、ポアロの不可解な行動に一部だが説明をつけることも出来る。考えれば考えるほどに、それ以外の結論は無いように思えた。
「わたし達の他にもいるじゃありませんか。」
「誰のことを言っているんだ?」
わたしは小声で囁いた。
「バウアスタイン博士ですよ。」
「そんな馬鹿な、彼には母を殺しても何も得るものなんかないじゃないか。」
だが自由が手に入るかもしれない。「メディナ」のいない世界での自由が。しかし、それを一般人のジョンに教えるわけにはいかない。
「その点はまだ分かりませんが、どうやら、わたしの友人もそう考えているようなんです。」
「貴方の友人が?もう少し詳しく。」
わたしは調子まで真似て、博士が事件の夜にこの屋敷にいたことを教えたときのポアロの意味ありげな言葉を繰り返した。その上、更に念を押すように言葉を続けた。
「こう言ったんですよ。”大したこと”だと。考えてみれば、アルフレッドがコーヒーカップを置いたと証言しているのは、博士が屋敷に来たのとちょうど同じ頃です。渡りに船というやつですよ。」
「そんな無計画な泥船に彼が乗り込むとは思えないが。」
確かにそれは無理がある。第一、外から来た博士にそれが夫人のものだと分かる道理もないのだ。しかし、わたしはまだ自説を諦めようとは思わなかった。
「少し先走りました。まあ、もう少し聞いてください。実はココアが再検査に出されているんです。何と言っても、ココアを検査したのは博士ですからね。」
「しかし、私も医学書で調べましたが、ストリキニーネに独特の苦味があるというのは純粋な事実ですよ。あの舌の肥えた母なら、そんな出来損ないのココアを一口以上飲むはずがない。」
「あるいは夫人のナノマシンに細工して味覚を狂わせたのかもしれない。理論上は可能なはずです。」
「私は詳しくは知りませんが、そういう処置はよっぽどの場合を除いて、本人の同意がいるのでは?」
「主治医の彼が強く言えば、夫人だって折れるときもあるでしょう。」
「あまりに煩わしいから好きなようにやらせた、ならあり得るかな。しかし、ココアは二階にあったんですよ。彼の立場ならもっとリスクの少ない方法があったんじゃないでしょうか。」
「毒殺という計画性の高い犯行にそぐわない行動なのは確かですね。しかし、リスクを恐れて人殺しなど──」
わたしはそのとき、実に簡単なこと規則を思い出した。リスクが大きすぎるなら分散させてしまえばいいのだ。あるいはそれが逆にリスクを増大させることになったとしても、往々にして本人たちは気づかないものらしい。
恋は盲目。先ほどの会話を考えれば、ジョンが真っ先に思いついても良さそうなものだが、もしかしたら無意識の内にその考えを退けているかもしれない。
バウアスタイン博士には共犯者がいたのだ。彼に絶好のタイミングを教えてくれるメアリというパートナーが。
あるいはメアリ・カウンディッシュこそがこの事件の主犯なのかもしれない。さっき見た彼女には、男の四、五人を悠々と手玉に取れそうなだけの底の深さがあった。
これが、ポアロとエヴィの間で交わされた謎めいた会話の意味だったのだろうか。確かに、彼女が信じたがらないのも無理はない。しかし、真実とは時にとても苦いものだ。
夫人からすれば博士たちの関係は、飼い犬に手を噛まれたような心地だったはずだ。彼女の気位を考えれば、博士たちに破滅を宣告してもわたしは驚かない。
不倫とそれにまつわる計画殺人、エヴィが愛したこの屋敷を飾るにはあまりに相応しくないゴシップである。もしかしたら殺された夫人だって、自分が死んでいるという条件下なら、親族にかかる苦労を考えて全てを闇に葬り去る方を選ぶかもしれない。
先ほどから眉間にシワを寄せていたジョンがぽつりと言った。
作品名:改・スタイルズ荘の怪事件 作家名:しかばね