ナキムシと手のひら
「髪、乾いたからそろそろ出ようか。
ここでずっと時間潰してたら、勿体ないし。」
『うん。』
タオルを返して、レジで迷惑をかけたことを謝って。
髪が濡れたせいか外に出ると少し寒かったけれど、
風もなく、空はよく晴れていて気分は良かった。
空気が冷たい分、繋いだ彼女の手から伝わる体温が嬉しくて、
手を繋いで、あちこちお店を見たり、美味しいものを食べたりした。
ささやかで、けれどとても大切な瞬間。
「最後にさ、君を連れて行きたい場所があるんだ。」
『どこ?』
「着くまで内緒!」
彼女と繋いでいない方の手で、こっそりポケットの中身を確認する。
大丈夫。ちゃんと入ってる。
「ここだよ。」
『ここ…って………うわぁ…』
一見何もないただの屋上だったけれど、
眼下に広がる光景を見て、みるみるうちに彼女の瞳が輝き出す。
『夜景…すごく綺麗………』
「でしょ?」
得意気に笑う俺のことなんて視界に入っていないのか、
彼女は街の灯りが作り出す光景にすっかり見入っていた。
高級レストランでもない、リゾート地でもない、
ありふれた日常の中の風景でもこんな風に素直に感動してくれる、
そんな彼女の素朴な感性が、とても愛おしかった。
「前に、道に迷っちゃったことがあってね。
偶然ここに辿り着いて、何か目印ないかなーって上に上がってみたんだ。
それで屋上に来たら、すっごく綺麗な夜景でね。
ずっと、君に見せたいと思ってたんだ。」
『ウキョウ…ありがとう。
こんなに綺麗な景色見せてくれて。』
「全然大したことないよ。
でも、君なら喜んでくれると思ったんだ。
それから…ね。」
『?』
コートのポケットの中身を探る。
彼女の手のひらにもおさまるくらい、小さな箱。
少しだけ恥ずかしくて、手で隠したまま彼女の手に押し付けるようにして渡す。
『ウキョウ、これ…』
「開けてみて。」
小さく頷いて、彼女が恐る恐るリボンを解いていく。
中にはさっきよりも少し高級そうな、小さな箱。
『薔薇の形の…指輪………』
「誕生日おめでとう。
ずっと、それを君に渡したかった。
ずっと、これを君に言いたかった。」
『ウキョウ…』
「貸して。つけてあげる。」
彼女の白くて小さな手を取る。
左手の薬指につけたそれは、まるであつらえたかのようにぴったりとはまる。
内緒で用意したから、サイズが合わなかったらどうしようという心配は無用だったようだ。
「うん、よく似合ってる。
やっぱりこれにして正解だったな。」
『ありがとうっ…!!』
胸に飛び込んできた彼女の瞳には、
うっすらと光るものが浮かんでいた気がした。
だけどそれは、俺も同じだった。
「ずっと…ずっとね、俺は君に逢いたかった。
君に逢って、君と一緒にいたくて、君と幸せになりたくて、
君が生きていれば十分だと思ったはずなのに、俺は、途中で間違えた。
欲張りな俺は、俺を知ってる君に逢いたくて、
他のやつじゃなくて俺に微笑んでくれる君に逢いたくて、
何度も何度も間違えて、何度も何度も君を傷つけた。」
この手にもかけた。
罪の重さに、耐えられなくもなった。
「覚えてる、かな?あの後、初めてデートした日。
俺が待ってて、君がそこに駆け寄ってきて、
それだけで俺が泣いちゃって、君がビックリしてたこと。
何でもないって言ったけど、本当はね、嬉しかったんだ。
ずっとずっと長い間、夢見たことだったから。
俺が出会った何人もの君は、俺の向こう側にいる別の誰かに微笑んでただけで、
俺は横を通り過ぎるその姿を見送ることしかできなかったから。」
あの笑顔が俺に向けばいいのにと。
俺だけを見てほしいと、何度も願った。
叶わないはずの、願いだった。
「だけど君は、許してくれた。
俺の願いを、叶えてくれた。
だからね、ずっと言いたかったんだ。」
顔に手をそえて、そっと持ち上げる。
彼女の瞳に映っているのは俺だけで、
きっと、俺の瞳に映っているのも、彼女だけで。
「生まれて来てくれて、ありがとう。
俺と出逢ってくれて、俺の傍にいてくれて、ありがとう。
まだまだ全然返しきれないけど、一生かけて、君がくれた分の幸せを返すから。
だから…だからこれからも、俺と一緒にいてください。」
『………ふふっ』
「えっ、な、何っ?ここって笑うとこ?!
あれっ、俺何か変なこと言った?!」
ごめんごめん、と、目に溜まった涙を拭いながら彼女が笑う。
割と真面目なことを言ったはずなのにと頭を悩ませていると、
突然目の前にさっき渡した指輪ごと手が差し出される。
「えーっと…?」
『プロポーズみたいだなって、思ったの。』
「えっ、ぷろぽーず………ってえっ、ええっ!?」
驚きのあまり後ずさった俺見て、彼女が声を立てて笑う。
『違うの?』
「えっ!?ちちちちち違うよ!
あ、違うっていやあのそういう意味じゃなくって!違うんだ!
えーっとその違うって言ってもそういう意味じゃなくって、
別に今のはそのプロポーズのつもりで言ったんじゃなくて
でもあの将来的にはそうなりたいっていう願望があって
でもでも今はそうじゃなくて違うけど違わなくてえーっとああもうっ!!」
『…ふふっ、わかってるよ。
ちょっとからかいたくなっちゃっただけ。ごめんね?』
「まったくもう君は…突然そんなこと言うから心臓止まっちゃうかと思った…」
まだ、胸がドキドキしてる。
体中が心臓になったみたいに、脈打ってるのがわかる。
いたずらっこみたいに笑うその表情に、ずるいと思うのに嬉しくなってしまう。
「そんな可愛いこと言って…後で嫌だって言っても知らないからね!
俺はもうその気になっちゃったんだから、責任とってよね!」
『うん…わかった。
ウキョウがこの手に本物の指輪つけてくれる日、待ってる。
あ、でも、本物くれてもこの指輪も大事にするからね。
ウキョウが初めて私の誕生日にくれたものだから。
だから、一生、ずっと、大事にする。』
「………うん。」
『………ウキョウ、また泣いてる。』
「気のせい!」
『まったくもう…』
彼女の手が、俺の髪を撫でる。
彼女が、好きだと思った。
彼女を、好きになって良かったと思った。
もし、本当に望めるのなら。
彼女との幸せな未来を、このまま描き続けていいのなら。
俺はずっとずっと傍にいて、死ぬまで彼女を守り続けて、愛し続ける。
来年も再来年もそれから先もずっと、彼女が生まれて来てくれたこの日に感謝する。
「―――誕生日、おめでとう。」