呪いと祝福、愛情と憎しみ
鬼にも死は訪れる。
死と言うより、死の世界から生の世界へ転生するという方が正しい。
鬼の寿命はひどく長い。生粋の鬼ならば数千年から一万年近く生きることもある。しかしそれでも、逝く時は逝く。
長年閻魔大王に仕えてきた古株の鬼が、また一人逝った。
鬼の死と言うのは、結構すさまじい。人間のようにゆっくりと老化していくわけではない。死の間際になってまず肉体が腐り始め、悪臭を放つようになる。そして徐々に朽ちて行く。
最期にはただの灰になる。魂は亡者のように裁きを受けることもなく、速やかに次の転生に向け、人間の女の腹に宿る。
白澤も、その鬼の最期の別れに立ち会ったらしい。古株なだけあって、鬼とは違い寿命と言うものが無いに等しい神々とも交流が深かったようだ。
白澤は、ずっとその場で、虚ろな眼差しを空に向けていた。いつまでたっても動こうとはしない。鬼灯がずっとそこでその後ろ姿を見つめ続けていることにも気付かない。
「いつまでそうしているつもりですか」
声をかければやっと、気の抜けた顔が振り返る。最初はこちらがどこの誰かも認識していないようで、気色の悪いことに、
「やあ、綺麗なお嬢さん」
などとふざけたことをのたまった。
無造作に金棒を振り上げ、振り下ろす。白澤の頭が地面にめり込む。図らずも地面と熱烈な接吻をする羽目になった白澤は、しかしそうまでされても府抜けた様を戻そうとはしなかった。
「痛い」
「なら、もっと痛くしてやりましょうか、この白豚」
地面に一層めり込むほどにぐりぐりと足で踏みつけてみるも、反応が鈍い。
この世界において、最も長命の部類に入る存在のくせに、親しい者が死んだり転生に入ったりすると、この男はいつもこうだ。確かに、鬼灯も何度も別れを経験し、寂しく思ったことも多い。だが、鬼灯はここまでにはならない。
「さみしいなぁ」
今日逝った鬼は、女だった。長年、白澤とはそれなりに深い関係を築いていた。遊び友達と言うのも少し違う。どこか家族のような付き合いだった、とも、傍から見ていた者たちは思っていた。
白澤は地面に突っ伏したまま、もう一度か細く寂しいと繰り返す。
そのうつぶせになった身体を、鬼灯は蹴りあげた。
「寂しかろうが、寂しくなかろうが、こっちはどうでもいい。あなたに頼んだはずの納期遅れの薬の仕上がりを、仕方ないから待ってあげているんです。だというのにいつまでもグダグダと、女々しいのは後にしてさっさと仕事に戻っていただけませんか」
いい加減現実を突きつけてやれば、流石に白澤も身を起こす。腐っても薬師。仕事は真面目にこなすところだけは、信頼できるのが、白澤だ。
「いてて。ほんと、お前はサイテーな奴だよ。感傷に浸ってる暇もありゃしない」
「貴様がおかしなものと見間違いをするからだ、この偶蹄目」
「うるさいっ! 僕はショックだったの! ああもう、あの子じゃなくてお前がさっさと転生するなりなんなりして居なくなってくれればいいのにっ」
埃を払って、白澤は毒づいた。
鬼灯はその台詞に思わず嘲笑っていた。
「そうですか。私だってあなたの顔を見なくて済むならさっさと転生したいものです」
売り言葉に買い言葉とは、こういうこと。
「さあさあ、それだけ言う元気があるなら、さっさと仕事に戻ってください。私は暇じゃないんですよ。片付けなければならない仕事が山ほどあるんですから」
「ほんと、人のことこき使いやがって。やな奴!」
超特急で仕上げさせた金丹を半ばふんだくるようにしてもらい受け、足早に桃源郷を後にする。
土地の境目を抜け、一歩二歩。白澤の姿がなくなり、緊張の糸がほぐれた途端に、鬼灯にくらりとめまいが襲った。ほんの少し足早に歩いた、それだけで、ぜいと息がきれた。
金棒が重たく感じるようになったのは、つい3日前からだ。それまでは何ともなかったというのに、3日の間にこの有様。閻魔殿まで戻るのに列車を待つのも億劫で、タクシーを捕まえ、その中で仮眠をとった。
戻ったら、貰い受けた金丹を急いで調合し直さなければいけない。
朧車に目的地に着いたと起こされるまで、泥のように眠った。疲れて転寝をした時ですら、これほどまでに一瞬で時間が過ぎ去ったことはあっただろうか。
降りて自分の部屋に戻るのも、足が重い。しかし、行き会う誰もそれに気づかない程度には、まだごまかせてはいるらしい。
部屋に戻り一人になると、そのまま寝台に突っ伏してしまいたい衝動に耐え、鬼灯は鏡の前に立った。
帯をとき、襦袢も脱いで、そこに映ったものに、失望した。
「ああ、やはりもう、来てしまったんですね……」
脇腹の辺りをさすると、ちり、としびれるような痛みが走る。そこが一部分だけ、どす黒く変色していた。絶望や恐怖はなかった。ただ、悔しさが残るだけ。
変色した痣を、布で巻いて覆い隠す。一時しのぎでしかないことは分かっている。もうしばらくすれば、変色は明らかな腐敗となって身体中に広がって行くだろう。腐臭も隠すことはできなくなっていく。
それが、鬼の寿命というものだ。
鬼灯は、寿命を迎えていた。人間と鬼火が融合して生まれた存在である鬼灯は、純粋の鬼よりも寿命が短かったらしい。誰も、鬼灯がこんなにも早く転生を迎えるなどと、思ってもいなかっただろう。閻魔帳に丁の名を見つけなければ、鬼灯自身気付かなかったかもしれない。
閻魔帳に記された丁の寿命を見るに、あと1カ月もない。
金丹で、どれほど引き延ばすことができるだろうか。焼け石に水と言う気がしないではない。それでも、まだ鬼灯はこの地獄を去る気にはなれなかった。
翌朝は、いつもより1時間も遅く起床した。慌てて身支度を整えても、体はやはり異様にだるい。金丹を調合しなおし、服薬してみたものの、効いているかどうかもわからない。
痣は、二つに増えていた。
「珍しいね、鬼灯君が遅刻するなんて。顔色悪いけど大丈夫?」
閻魔大王が、心配そうに首を傾げる。他の鬼には全く感づかれなかったというのに、この大王は鈍いのか鋭いのか、時々わからなくなる。
だがどちらにせよ、流石にこれ以上大王に隠し通すことはできないだろう。
「身体に、痣が出来まして」
さらりと言った言葉に、即座に大王は意味を察したらしい。もう少しボケるかと思っていたのに、意外だった。
いつもはのほほんとした顔を、今だけ閻魔の名にふさわしく強張らせた大王を、金棒で思い切りぶったたく。
「硬直してないで仕事してください。いつも通りにしなければ怪しまれてしまうじゃないですか」
仕事をするふりをさせながら、密やかに耳打ち。それでもまだ何か言いたそうな大王の首を、普段やるように締めて見せれば、ようやくしぶしぶと机に向かう。
「ついに来ちゃったんだね」
「これでも長かった方だと、思いますよ。もともと、ただの人間の身体にいくつもの鬼火が入りこんでできた存在です。早々に何らかの崩壊が起きてもおかしくはなかった」
「そうかもしれないけどね……。やっぱり、寂しいよ」
死と言うより、死の世界から生の世界へ転生するという方が正しい。
鬼の寿命はひどく長い。生粋の鬼ならば数千年から一万年近く生きることもある。しかしそれでも、逝く時は逝く。
長年閻魔大王に仕えてきた古株の鬼が、また一人逝った。
鬼の死と言うのは、結構すさまじい。人間のようにゆっくりと老化していくわけではない。死の間際になってまず肉体が腐り始め、悪臭を放つようになる。そして徐々に朽ちて行く。
最期にはただの灰になる。魂は亡者のように裁きを受けることもなく、速やかに次の転生に向け、人間の女の腹に宿る。
白澤も、その鬼の最期の別れに立ち会ったらしい。古株なだけあって、鬼とは違い寿命と言うものが無いに等しい神々とも交流が深かったようだ。
白澤は、ずっとその場で、虚ろな眼差しを空に向けていた。いつまでたっても動こうとはしない。鬼灯がずっとそこでその後ろ姿を見つめ続けていることにも気付かない。
「いつまでそうしているつもりですか」
声をかければやっと、気の抜けた顔が振り返る。最初はこちらがどこの誰かも認識していないようで、気色の悪いことに、
「やあ、綺麗なお嬢さん」
などとふざけたことをのたまった。
無造作に金棒を振り上げ、振り下ろす。白澤の頭が地面にめり込む。図らずも地面と熱烈な接吻をする羽目になった白澤は、しかしそうまでされても府抜けた様を戻そうとはしなかった。
「痛い」
「なら、もっと痛くしてやりましょうか、この白豚」
地面に一層めり込むほどにぐりぐりと足で踏みつけてみるも、反応が鈍い。
この世界において、最も長命の部類に入る存在のくせに、親しい者が死んだり転生に入ったりすると、この男はいつもこうだ。確かに、鬼灯も何度も別れを経験し、寂しく思ったことも多い。だが、鬼灯はここまでにはならない。
「さみしいなぁ」
今日逝った鬼は、女だった。長年、白澤とはそれなりに深い関係を築いていた。遊び友達と言うのも少し違う。どこか家族のような付き合いだった、とも、傍から見ていた者たちは思っていた。
白澤は地面に突っ伏したまま、もう一度か細く寂しいと繰り返す。
そのうつぶせになった身体を、鬼灯は蹴りあげた。
「寂しかろうが、寂しくなかろうが、こっちはどうでもいい。あなたに頼んだはずの納期遅れの薬の仕上がりを、仕方ないから待ってあげているんです。だというのにいつまでもグダグダと、女々しいのは後にしてさっさと仕事に戻っていただけませんか」
いい加減現実を突きつけてやれば、流石に白澤も身を起こす。腐っても薬師。仕事は真面目にこなすところだけは、信頼できるのが、白澤だ。
「いてて。ほんと、お前はサイテーな奴だよ。感傷に浸ってる暇もありゃしない」
「貴様がおかしなものと見間違いをするからだ、この偶蹄目」
「うるさいっ! 僕はショックだったの! ああもう、あの子じゃなくてお前がさっさと転生するなりなんなりして居なくなってくれればいいのにっ」
埃を払って、白澤は毒づいた。
鬼灯はその台詞に思わず嘲笑っていた。
「そうですか。私だってあなたの顔を見なくて済むならさっさと転生したいものです」
売り言葉に買い言葉とは、こういうこと。
「さあさあ、それだけ言う元気があるなら、さっさと仕事に戻ってください。私は暇じゃないんですよ。片付けなければならない仕事が山ほどあるんですから」
「ほんと、人のことこき使いやがって。やな奴!」
超特急で仕上げさせた金丹を半ばふんだくるようにしてもらい受け、足早に桃源郷を後にする。
土地の境目を抜け、一歩二歩。白澤の姿がなくなり、緊張の糸がほぐれた途端に、鬼灯にくらりとめまいが襲った。ほんの少し足早に歩いた、それだけで、ぜいと息がきれた。
金棒が重たく感じるようになったのは、つい3日前からだ。それまでは何ともなかったというのに、3日の間にこの有様。閻魔殿まで戻るのに列車を待つのも億劫で、タクシーを捕まえ、その中で仮眠をとった。
戻ったら、貰い受けた金丹を急いで調合し直さなければいけない。
朧車に目的地に着いたと起こされるまで、泥のように眠った。疲れて転寝をした時ですら、これほどまでに一瞬で時間が過ぎ去ったことはあっただろうか。
降りて自分の部屋に戻るのも、足が重い。しかし、行き会う誰もそれに気づかない程度には、まだごまかせてはいるらしい。
部屋に戻り一人になると、そのまま寝台に突っ伏してしまいたい衝動に耐え、鬼灯は鏡の前に立った。
帯をとき、襦袢も脱いで、そこに映ったものに、失望した。
「ああ、やはりもう、来てしまったんですね……」
脇腹の辺りをさすると、ちり、としびれるような痛みが走る。そこが一部分だけ、どす黒く変色していた。絶望や恐怖はなかった。ただ、悔しさが残るだけ。
変色した痣を、布で巻いて覆い隠す。一時しのぎでしかないことは分かっている。もうしばらくすれば、変色は明らかな腐敗となって身体中に広がって行くだろう。腐臭も隠すことはできなくなっていく。
それが、鬼の寿命というものだ。
鬼灯は、寿命を迎えていた。人間と鬼火が融合して生まれた存在である鬼灯は、純粋の鬼よりも寿命が短かったらしい。誰も、鬼灯がこんなにも早く転生を迎えるなどと、思ってもいなかっただろう。閻魔帳に丁の名を見つけなければ、鬼灯自身気付かなかったかもしれない。
閻魔帳に記された丁の寿命を見るに、あと1カ月もない。
金丹で、どれほど引き延ばすことができるだろうか。焼け石に水と言う気がしないではない。それでも、まだ鬼灯はこの地獄を去る気にはなれなかった。
翌朝は、いつもより1時間も遅く起床した。慌てて身支度を整えても、体はやはり異様にだるい。金丹を調合しなおし、服薬してみたものの、効いているかどうかもわからない。
痣は、二つに増えていた。
「珍しいね、鬼灯君が遅刻するなんて。顔色悪いけど大丈夫?」
閻魔大王が、心配そうに首を傾げる。他の鬼には全く感づかれなかったというのに、この大王は鈍いのか鋭いのか、時々わからなくなる。
だがどちらにせよ、流石にこれ以上大王に隠し通すことはできないだろう。
「身体に、痣が出来まして」
さらりと言った言葉に、即座に大王は意味を察したらしい。もう少しボケるかと思っていたのに、意外だった。
いつもはのほほんとした顔を、今だけ閻魔の名にふさわしく強張らせた大王を、金棒で思い切りぶったたく。
「硬直してないで仕事してください。いつも通りにしなければ怪しまれてしまうじゃないですか」
仕事をするふりをさせながら、密やかに耳打ち。それでもまだ何か言いたそうな大王の首を、普段やるように締めて見せれば、ようやくしぶしぶと机に向かう。
「ついに来ちゃったんだね」
「これでも長かった方だと、思いますよ。もともと、ただの人間の身体にいくつもの鬼火が入りこんでできた存在です。早々に何らかの崩壊が起きてもおかしくはなかった」
「そうかもしれないけどね……。やっぱり、寂しいよ」
作品名:呪いと祝福、愛情と憎しみ 作家名:日々夜