春の空に
榛名の家を訪ねたのはまだ夏の気配の遠い春のことだった。
少し曇った空が低く沈んでいて、そう遠くないうちに雨が降るだろうという天気の日で、部室でほんの少しミーティングをしただけで部活の終わった日だったからさてこれからの時間をどうするかとオレは思いをめぐらせていた。毎週ある部活休みの日なのに何だか毎週どうしようかと考えてる気がして自分でも苦笑したが、体力の有り余ってるやつなんてそんなもんだろうとも思う。
そしてふと目に留まったのが先に帰った榛名のロッカーからはみ出している(中がぐちゃぐちゃでたまに入りきっていない)教科書だった。
…たしか、あいつ出て行くときにしばらく古文の教科書がどこにもない、明日小テストなのにと騒いでいた気がする…結局見つからずじまいで「まあいいや秋丸に明日朝借りるわ」と行って小突かれていた。ロッカーの中汚すぎて見つけられなかったのか。
つまんでみると確かに古文の教科書で、後表紙を一枚捲ると少し角ばった字で榛名とネームペンで隅に書かれている、これは多分秋丸の字だ。
投げてるときは確かにすげーし男から見ても見た目カッコイイっていうのはよく分かるんだけど、これじゃあなあ、とオレはため息をつく。
そう思いながら折角の部活休みにわざわざ後輩のために教科書を届けてやろうかなんて思ったのは、多分あんだけロッカーが汚いなら部屋はどうなんだとか、あとはやっぱりすることがないから暇つぶしにということからだった。
事前にメールしてやったら「秋丸に持たせればいいのに!」だの「いいすよわざわざ!」なんて返事と同時に道順も書いてあってどっちなんだよと思わずツッコむ。あとお前秋丸を何だと思ってんだ。
大体の場所は分かったし一軒屋らしいし、榛名なんて苗字もそうそうないからすぐにみつかるだろうと思ってうろうろとしていたら、それより先にでかい図体した男が玄関先で突っ立ってるもんだから変な笑いが出た。オレも何してんだろうなあ、でもこういう妙な気分になって変なところまで歩いたりしちまうことってあるよなあ。
「うす」
「ちわっす!」
いつも歯にいいガムを噛んでる効果か知らないが白い歯を光らせて榛名が笑った。なんとなくオレはそういうとき惨めな気分になるんだけど、まあ別にいいやと最近では思う。
「わざわざスンマセン、上がってってください」
「おー」
今ねーちゃんしかいないんで、と言いながらサンダルを玄関に放って榛名はフローリングの床を音を立てて歩いていく。お邪魔します、と一言断って靴を脱いで踵を揃えて上がりこむと遠くで元希お客さんー?と高い声がしてどきりとした。
「おー部活のセンパイー」
ああお姉さんか、とトントンと階段をあがっていく榛名の後をついていくながら呟く。声だけでなんか美人そうな感じだ。
部屋に通されると案の定散らかっていて、予想していたよりは辛うじてマシかなあというところだった。
「こないだ掃除したんで」
それでこんだけ散らかってたら救いようがないぞお前!
「…ほれ、教科書」
「あ、ありがとうございます」
言葉では感謝していたものの、受け取ったが最後勉強しない口実がなくなるので榛名はどことなく苦いものを顔からにじませていた。気持ちは、よく分かる。
受け取って、そんなに重いもんでもないのに教科書を持った手を少し落として背の高い後輩は「飲み物持ってきます」と苦く笑った。
榛名が部屋を出ていって一人残されたオレは何となしに部屋を見回す。
散らかってるがそれなりに広いしベッドもでかい(ある程度でかいサイズでないと体が収まらないんだろう)からかあまり窮屈な印象は受けない。イメージ通りといえばその通りの部屋で、納得する反面なーんだ、というがっかりした感じでもあった。勝手な話だが。
ふと、あまり身のない本棚を見ると他より少し上等な背表紙の本が目に付いた。背表紙には何も書かれていない。
今日の何となく浮ついた気持ちがひっこみがつかなくて、少しでも何か見てみたい気持ちがそれを手に取らせる。アルバムだった。
そりゃあ、アルバムだったら背表紙に何もなくても当たり前だよなあ。他より上等な革張りなのも当たり前だった。自分が何故か榛名の部屋に過度な期待を寄せすぎているのを自覚してちょっと顔が熱くなる、なんかこう…榛名に対して少し深く考えすぎているような、気がする。
手に取ったそれは少し埃っぽくて、最近あんまり開いてないんだろうなということが分かった。そっと表紙を開いたら、何も入ってない。
「あれ?」
捲る方を間違えたみたいだった。いくつかそのままページを捲っていくと一番最後にあたるページには中学を卒業したときらしい学ラン姿の、今より少し小さい榛名の写真が写っていた。にっこりと卒業証書の入った筒を左手に抱え、笑っている。数枚同じ時に撮ったらしく、中には秋丸が写っているものもあった。
ページを進める。
修学旅行に行ったとき悪ふざけしながら撮ったものだとか、家族旅行らしくシャッターに少し遅れた父親らしい人をからかうような笑いを浮かべて写っているもの、そして季節を少しさかのぼると見知らぬユニフォームを着てやはり笑っている榛名が写っていた。
生成り色の縦縞模様をしたユニフォームの胸元には筆記体で「Todakita」と書かれていて、ああシニアのものなんだなと理解した。卒団式の日に撮ったものらしく、比較的背の高い選手が真ん中の方に集まって写っている、三年生なんだろう。
しかし榛名の横に並んでいるのはそれらと比べてかなり背の小さな防具を付けた選手で、そういえばシニアのとき組んでいたのは後輩の捕手なのだと言っていた。単に背が低いというより榛名と比べて随分と細身というか、成長しきっていないように見える。一体あんな球を捕るとかどんな超級の後輩だよと思っていたがどうもそういうわけでもないみたいだった。
榛名が楽しそうに笑っているにも関わらず後輩らしい捕手は表情を固くしていて、子供っぽさの残る大きな目がどこか疲れたようだ。榛名の左腕でひきよせられた首から上はなんともうんざりした気持ちが滲んでいる。全員泥だらけだったから、きっと存分に運動した後で疲れているんだろう、他の奴らが元気ありあまりすぎてるんだなとオレは人知れず笑う。この分だと「そいつ生意気で」と何度も榛名が言ってたのはこういうときに無理矢理引っ張りまわしてた榛名にも責任があったに違いない。
一枚、一枚と捲っていくとそこからはほとんどシニアの写真ばかりで、それらの合間に文化祭だとか体育祭で活躍する様を写っているという具合だった。どの写真でも榛名は真ん中に写っていて、ヒーローだった。試合は勝った写真しか撮ってないせいかどれも楽しそうで、途中からは後輩の捕手が笑っている写真もちらほらと見られた、年相応のはにかんだ笑い方だった。
文化祭でも演劇でスポットライトを浴びて、体育祭では一位の旗を持っている。
まるでそれが当然のようにそこにある、そうじゃない人間がどれだけいるのか分からないのにその全部が榛名を讃えるような写真ばかりだった。
そして、とあるページでそれが途切れる。