スノースマイル
「―――大佐。コーヒー、もう一杯いかがですか?」
冬薔薇の蕾をぼんやり見つめながらカップを傾けていたロイに、控えめで温和な声がかけられる。振り向けば、そこには品の良い老婦人がポットを片手に立っていた。
「…ああ、ありがとう。いただきます」
ロイもまた穏やかに微笑んで、カップをテーブルに戻す。
ガラス張りの温室の中、ハーブや野菜、そして花に囲まれた一角に、小さなテーブルと椅子が一組おいてある。ロイは今一人そこへ掛けて、コーヒーを啜っている。飴色に輝くタルトが一切れ、皿には切り分けられていた。
「…大佐?」
「…なにか?」
「いえ、何かというほどの事はないのですけれど…。いつかの小さな錬金術師のお友達、もうこちらへいらっしゃいませんの?」
いくらか寂しそうな老婦人の声音、ああ、とロイは笑顔を浮かべた。
「彼ですか。…そうですね、…私もここのところしばらく会っていないのです」
「まぁ」
「何しろ、彼は旅から旅の暮らしをしているもので。…なかなか…私のところにも顔を出しやしない」
「あら…そうなんですの?」
「そうなんですよ。…ひどいと思いませんか」
私はこんなに心配しているのに、と幾分大仰に言えば、老婦人は楽しそうに肩を揺らした。
「…戻ってらっしゃいますわよ」
笑いが収まった頃、老婦人は静かに言った。
「そうでしょうか」
ロイもまた笑いながら返す。しかし、言葉は思ったよりも不安のこもったものになってしまった。
「ええ。…あのお友達、きっともうすぐ、大佐のところへいらっしゃいますわよ」
きっとね、と彼女は穏やかに笑った。―――その生きてきた年輪が刻まれた穏やかな顔には、ただ深い慈愛だけが見える。長く生きるとはこういうことだ、と彼女の顔貌は雄弁に語っていた。
「…ちょうど去年も今頃でしたでしょう?」
「…!ああ…そういえば」
「ポワールの終わる時季でしたもの」
老婦人の言葉に、ロイはタルトの載った皿を見た。
「…きっといらっしゃいますわ」
老婦人は、もう一度繰り返した。
そしてロイは、わずかに目を眇めて、去年の今頃のことを思い出していた。
ザー!ザー、ザザー!
背格好がお世辞にも大きくないので、一見するとそれは微笑ましい光景ではあった。金髪を三つ編みにして背に流している子供が、何となく真剣な様子で、道路脇に積もった落ち葉の山を崩して歩いているのだ。金とも
見紛う大きな瞳をきらきらさせている様子は、子猫が真剣に毛糸玉にじゃれている姿を連想させる。
「…ちょっと兄さん、もー、やめなよ」
その背中に、いかにも目立つ全身鎧の人物が呆れたような声を掛ける。いかつい姿とは裏腹に、随分と高い声をしていた。
「え?」
そうして声を掛けられて、初めて気がついた、という様子で、少年が顔を上げる。既に黒いズボンには赤やら黄色やらの落ち葉とその屑が模様のように纏わりついている。
「…え、じゃないよ、もう…。誰かがちゃんと落ち葉を寄せてくれてるんでしょ?どうして兄さんはそれを散らかしちゃうんだよ」
「え…いや、その…だってほらアル!崩したくなんねぇ?!こういう山見るとさぁ!」
腰に手を宛てて叱ってきた鎧の人物に、少年は必死に弁解する。余計に幼い。そんな彼―――兄に、鎧もといアルは深々と溜息をひとつ。
「兄さん」
「…はい…」
多分、生身の体があったらきっと今ごろはすごくすごくいい笑顔を見せてくれていたのだろう。嵐の前の静けさ、というやつだ。
「今すぐ散らかした分片付けないと、ひどいからね」
やがてひねり出されたアルの声は、それはもう冷えに冷えていた。そうそう誰にも遅れをとることのない少年が、一瞬絶句して顔を青褪めさせるくらいには。
と、そんなときである。
「…相変わらずだねぇ、君達」
くつくつという押し殺した笑い声と、いかにも愉快そうな声がしてきて、ふたりはあっという顔をする(実際には、アルの表情はわからないが)。
「「大佐!」」
きれいに揃った呼びかけに、笑っていた男は片手を上げて答えた。
「鋼のもアルフォンスも、久しぶりだね」
「コラ待て。なんであんたがウチの弟呼び捨てか。いつからそんなに親しくなった」
自分の倍以上も大きな体をしているとはいえ、弟は弟。少年、エドの中では、庇うべき存在に区分されているのだ。
…たとえ、おいたをして怒られることがあっても。どっちが兄貴かわからなくても。
「…?鋼のもエドワードと呼んだ方がいいのかな?」
が。
牙を剥いたつもりが、全然通じていないどころか見当違いなことを言われ、エドはぽかんと口を開ける。
「私は別に構わないが…では今日からそう呼ぼうか」
相手も相手で、ごくごく不思議そうにそう問いかけてくるのがいやみったらしい。いや、天然なのかもしれないけれど。いたたまれないだろう、あまりにも。
「―――いらんわ!」
とうとうエドは、顔を真っ赤にしてそう怒鳴ると、ぷりぷり歩き出してしまった。
「鋼の?どうしたんだ、一体」
その背中に、まだ呆然としたまま大佐、ふたりにとっては馴染み深い人物であるマスタング大佐が軽く手を伸ばす。
「…やっぱりカルシウムが不足しているんだろうか」
ううむ、と彼は難しそうな顔をして唸る。
「そう思わないか。アルフォンス」
「はぁ…まあ思わなくもないですけど」
割と真剣にそう問うてきている雰囲気のロイに、アルは微妙に引きつった雰囲気で返答する。そうすればその空気が伝わったのだろう、さすがに大人ではあった。彼は顔を緩め、肩を竦めるとこう言った。
「…さて。まあ拗ね豆は放っておくとして…」
―――前言撤回である。大人の言うこと、やることではない。
「てんめぇええええ待ちやがれコラ!!誰が…!!」
途端にくるりと振り返り、どどどと嵐のような足音を立ててエドが戻ってくる。それにくすくす笑いながら、ロイはひどく楽しそうだ。
「…………」
…駄目な大人がいる…。
アルは思った。だがアルは割と大人的な視点を持っていたので、そんなことを口に出してもあまり意味がない、そして有益でもない、ということをよく理解していた。だから何も言わない。
二人はというかロイはというか、楽しそうにくるくると追いかけっこを始める。おかげで、落ち葉の山はいよいよがたがただ。もはや呆れてしまって、アルには言葉もない。
「こんにちは。アルフォンス君」
と、ぐったりしていたアルに、凛とした声が掛けられる。
「あ、中尉!こんにちは」
その声にはっとして、アルは振り向いた。そこには、想像に違わずきっちりときれいに髪をまとめた女性がぴしりと立っている。思わずアルは安堵の溜息をついた。
「…しようのないこと」
彼女はちらりと目の前の惨状を見て取ると、わずかに口元に笑みを刷いた。そのきれいな笑みに、アルはぞっとする。
そして一歩、さりげなく彼女から距離を置いた。
保身ではない。―――花道を開けたのだ。
「…サイレンサーをつけておいてよかったと思うのは、こういう時ね」
これから見られるはずの名人芸を、アルは素直に楽しみに待った。
ヒュンッ…、ぽふっ。