箱庭
――嘘を吐いてこのまま騙していて
プロローグ
あちこちが老朽化し、今にも崩落しそうなその道を、ふたりは特に言葉もなく慎重に歩いていた。一定距離ごとに組まれた梁でさえ、触れれば倒れそうなほどだった。
―――所はイーストシティから北へ十数キロも進んだ場所にある、廃坑。
荒れた場所が放置されると、大抵の場合ならず者がそこへたまり始めるものだが、その場所は珍しくその弊害を逃れていた。だが、勿論それは、アメストリスからやくざ者が消えた―――ということではない。
要するに、危険なのだ。単純に。
廃坑のあちこちで、日常的に崩落が起こる。そんな場所を根城と定めるほど度胸のあるはぐれ者はそうそういない。
うらさびれ、誰も近寄らず、朽ちて行く廃墟。
いずれは砂漠か草原にか飲みこまれて行くのであろう。
…いくのであろう、そのはずだった。
「鋼の、足元に気をつけなさい。脆くなっているから」
「あんたこそ気をつけろよな。地下だし、湿気が多い」
地の底へ続いているかのようにさえ錯覚してしまいそうな、大きな裂け目。その縁に立ちながら、背の高い方が小さな方へ、一応は気遣う声をかけた。しかし、気遣われた方はといえば、生意気に鼻を鳴らして跳ね除ける。
鋼の錬金術師、エドワード・エルリック。そしてその、恐らくは後見とでもいった立場に類するのであろう、東方司令部にて采配揮う大佐、ロイ・マスタング。
ふたりに共通するのは「国家錬金術師である」という事実。
…うらさびれたこの廃坑に、彼らが、わざわざふたりだけでやってきたのにはそれ相応の理由があった。
半年前くらいから、この廃坑から奇妙な発光現象が報告されていたのである。始めは、やれ亡霊の仕業だのなんだのと噂されたが、近隣住民から不安の声が強く上がるようになってきては見過ごしてもおけない。それに、何らかの犯罪が関与している場合も考えられないことはない。
そうして最初の調査隊が派遣されたのは、四ヶ月前。しかし結果は芳しくなく、以後数回に渡って調査隊が派遣された。
転機が訪れたのは、半月前。最新の調査報告による。
曰く―――、廃坑の奥の裂け目付近に、結界のような徴がうがたれていた、と。報告を基に起こされた図案から、それは、複雑化された錬成陣ではないか、という興味深い意見が出された。
発光現象の謎を解くためには、錬金術の見地に立った調査も必要である、ということが、その時の報告会議であきらかとなった。
―――が。
軍がそうそう潤沢に錬金術師を抑えているわけではない。何となれば、すぐに動かせるそれ相応の実力を備えた錬金術師、となると、それははっきりいってロイしか該当していなかった。すくなくとも、その当時の東部では。
現場が廃坑であるために、調査とはいえ、あまりにもインドアタイプの研究者がそこまで入って行けるとは言い難かったのもある。
だがロイは、錬金術師でもあるが、司令部においては実権を持つ司令官のひとりでもある。そう易々と場を離れられるものでもなかった。まして、供もほぼ伴わないで、等と。
仮定としてもありえない話だった。
そんな時、はかったかのようなタイミングで東方を訪れたのは、ロイが見出した―――と、世間では認知されている(傾向がある)「鋼の錬金術師」。無論、彼には彼の目的があって立寄ったのだろうが、…東方司令部にとってはまさしく渡りに船。
調査に付き合ってくれたら(この切り出し方からして既に上下関係の緩みが出ているとしかいえない)その分何か文献なり資料なりを提供するから、と申し出たロイにエドワードは結局頷き、事態はここに至っている。
「報告書によるとこの辺らしいんだが…」
裂け目の天井、手が届くあたりの壁面に手をつきながら、ロイは奥底を窺った。しかしそこには闇があるのみで、何も見えない。
「…底の方、多分湖か…川か、なんかそういうのがあるんじゃないか」
ロイの隣でしゃがみこんで、エドワードは考えこむような顔でそう言った。いや、遠くの方を見つめるような、どこか茫洋とした表情で。それからぺろりと下唇を舐め、こともなげにこう根拠づける。
「風が冷たい。それに湿気が多すぎる」
「…君は野生児みたいだなあ。確かに風は冷たいが、地下だからかと思った」
「あんた、…そんな鈍くてよく今まで死ななかったな…」
あっけらかんと言い放ったロイを見上げながら、エドワードは呆れた様子。
「運がいいからな」
「………………」
「言っておくが運も実力のうちだ。君が私に出会ってこの道に進んだようにね。…さて、…どうする?もう少し奥まで進んでも?」
「…暗いんだよな。…でも、湿気がな…」
ちらり、と少年は上司格の男の手元に視線を送った。その意味深長な視線を敏感に察して、ロイはわざとらしい咳払いをひとつ。
「…何が言いたいのかな?鋼のは」
「…灯り。つけてほしかったんだけど。…でもやっぱ素直に蝋燭かなんかからつけなきゃだめかなって…。湿気がな、多いから」
ロイは―――にこりと笑った。
「あんまり舐めるなよ、ちいさな鋼の」
「…!て、てンめぇ…!!」
掴みかかろうとした刹那、ぱちっ、という音と共に小さな焔。
「……」
魔術師か何かのように、一瞬にしてカンテラに燈した男は小さく、しかし得意げに笑った。
「誰が役立たずだって?」
「………いや、つけばいいんだけど、つけば」
「さぁ、進もうか?」
ロイはにこやかに笑い、エドワードは釈然としない顔で渋々頷いた。
急激に下がっているということはなかったが、それでも、やはり道は下の方へ進んでいるようだった。
「…なあ、どこまで進む?」
「そうだな…」
ふっと、ふたりは立ち止まった。
途端に、耳が痛くなる程の沈黙が二人に圧し掛かってくる。
「さっきの縁のところまで戻って、もっかい調べなおさねーか?報告だとあの辺に錬成陣らしきもんがある、っていうんだっただろ?」
「…ああ…」
しかし、先ほど調べた時には、それらしきものは見つけられなかった。
だが、…確かに、このまま宛てもなく進んでいってどうなるものでもないだろう。ロイは軽く溜息をついて頷き―――かけた。
「…?」
「大佐?」
「しっ。…何の音だ?」
突然厳しい顔になって黙りこみ、耳に軽くて手を添えるようにしてあたりを窺い出したロイに、エドワードは不審げに眉をひそめる。
「…音…?」
そして、彼に倣ってあたりに意識を研ぎ澄まさせる。
耳鳴りのような音はずっとしている。だが、多分ロイが言っているのはそれではない。
「……あ…?」
不意に、少年の耳もまた、不思議な音を拾う。
チチチ…
強いて言えば虫が鳴くような…高く、そして妙に耳障りな高音。何かが焼けつくような。
「…なんだろ…、…って、えっ」
首を捻ったエドワードと対照的に、ロイの顔は険しくなり、そして有無を言わさず少年の手首を捕まえると、そのまま元来た道を全速力で走り出した。
「う、わ、あ、わ、ま、…まっ」
恐ろしい勢いで引っ張られ、エドワードアは半ば引きずられるように走る。あまりの速度に口も回らない。下手に話そうとすれば舌を噛みそうだった。
「…ちっ」