箱庭
と、短い舌打ちの音。
え、と思う間もなく、手首からものすごい力で少年を引っ張っていた男は、さらに強い力でどちらかといえば小柄な体を引き寄せ、肩に担ぎ上げた。当然抗議する間もない。
「黙ってろ!」
…そして実力行使してくれた男は乱暴に言い捨て、まるで風袋でも担いでいるかのように軽々と、小荷物を抱えたままそれまでよりも速く走り出した。
はっきりいって、滅多に見られない姿ではあった。彼がこんなにも真剣に何事かにあたっているなど。そもそもエドワードは、ロイがこんなに速く走れるとも思っていなかった。
そしてどれだけ走っただろう。実際には、大した時間は経っていなかったはずだが。
…ジジッ
「…?」
先ほどの違和感よりも、もう少しはっきりとした音が聞こえてきた。それに眉をしかめる隙もあらばこそ―――
「…!」
担ぎ上げたエドワードを庇うように、ロイは己が胸の中へと引き落とす。そして、自分ごと丸くなり壁面の亀裂に身をすりこませた。
どちらが早かったかは判然としない。
だが、とにかく、すぐに衝撃が来た。耳が馬鹿になったように音が拾えなくなる。ただ吹き飛ばされないよう、互いをきつく抱きしめ合うしかない。
ぱらぱらぱら…と砂が落ち始める頃には、爆発…、いや、爆発とそして崩落は落ち着いてきていた。しかしすぐ同じ事が起こらないとはいえない。
息をつくこともせず、腕の中でほっとしている子供の腕をたたいてロイは促した。
「ぼんやりしてるんじゃない」
幾分きつめに言われ、むっとした表情をエドワードはちらりとのぞかせたが、確かに男の言う通りだと思ったのだろう。いやいやといった風ではあったが存外素直に頷いていた。
それにロイは何を言うでもなくただニ、三度頷くと、廃坑に入ってきたのとは逆側に歩き始めた。何となれば、衝撃で崩れた土砂の向こうに入ってきた道があったからである。
「…道、わかるのかよ」
若干の不安を覚え、エドワードはロイの腕を引く。
「ああ。地図は頭に入っている。こちら側にニ、三百メートルも進めば、鉱山があった頃の集落の跡がある。今は無人だが、雨露を凌ぐ場所くらいはあるだろう」
「……」
「この崩落だ。我々が三時間して戻らない場合は捜索に入るように予め指示してあるし、付近に何人か待機させている。…なに、すぐに救助が来るさ」
安心したまえ、とロイは至極当然といった口調で告げた。
それに、仕方なく、エドワードは頷いたのである。
果たして数分も歩けば、確かに空気の流れが変わった。
確実に外が近い。そのことに、エドワードはほっと胸をなでおろした。…そして、さきほどから気になっていたことを口にする。
「…なぁ、大佐」
「なんだね」
「なんか、…もやみたいの見えるよな。これなんだろ」
「……靄?」
不意にロイは歩みを止め、脇を歩く少年を見下ろした。
「…そんなものは見えないが…」
「え?でも…、…あれ? …なんだろ…大佐がぼやけて見える…」
見上げてくる顔つきは大分覚束なげで、それまで少年の異変に気付かなかった己をロイは瞬間呪った。
「…もう少し先まで行こう。外に出られるはずだ」
そう言うと、ロイは逸る気持ちをどうにか押さえ込みながら、出来るだけやさしくエドワードの手を取り、導くように歩き出した。普段であれば逆らうはずのじゃじゃ馬が大人しくついてくるのもまたロイの不安を煽った。
そして、ロイの記憶通り、道は外へと続いていた。
ふたりが廃坑へ入ったあたりの環境は、いかにも朽ちた廃墟といった風情だったが、こちらは森のようになっており、それとは大分趣が違っていた。しかし確かな外気とやわらいだ陽光に、ロイも長めの息を吐いた。彼とてまったく緊張していなかったわけではないのだ。
だが、ほっとしてばかりもいられない。
「…鋼の。こちらを、ゆっくり見てごらん」
ロイは、慎重に少年の頬に手を添えると、自分の方を見るように促した。すると、途中までその言に従おうとしたエドワードが、不意に顔をゆがめる。
「いっ…、まぶし、なんか、痛い…」
「ああ、…閉じていて」
珍しくも弱音を吐いた少年に慌てて、ロイは大きな手で彼の金の目をそっと覆う。
「…さっきの崩落の時目を傷つけたのかもしれないな…、痛みがある他は?視界がぼやけて、他には」
「他って…とにかく、なんか、痛ぇ…」
「………」
ロイは思案げに視線をめぐらせた後、閉じていて、と念を押し、白い瞼を覆っていた手を外した。それからおもむろに軍服の上着を脱ぐと、ワイシャツを引きずり出し、未練なく裾を破り始めた。
びりりという布を裂く音に、エドワードは目を閉じたまま顔を引きつらせる。見えないからこそ不安は掻き立てられた。だが瞼を開けば痛いのだ。痛みの具合から察するに、目に異物が入っているのではないかと思うのだが、本当に眼球を傷つけているのかもしれない。いずれにせよロイもエドワードも医師ではないので、そのあたりはどうにも断定できなかった。
さして時間もかけず、ロイは布を細く裂いて即席の包帯を作り上げるのに成功する。手慣れた仕種と発想は、彼の過去をほんのわずか垣間見させたが、その時のエドワードにはそんなことを考える余裕はなかった。
ふわり、と瞼に触れる感触から、少年は驚いて肩を跳ねさせる。
「これ以上傷つけるといけない。どこか落ち着ける場所を探したらもう一度よく見てみるが、しばらくはこれで我慢してくれ。…ぱっと見た感じ目の際に傷があるようだ。それが原因かどうかはわからないが…応急処置だ」
「…あ、…うん」
「本当はおぶってやりたいんだが、…足場があまりよくなくてね。ゆっくり歩く。手を離さないでついてくるんだぞ」
「…!だ、…誰が!いいよ、オレ歩けるしっ」
「ああ、だから歩いてもらおうと言った」
ロイはさらりとエドワードの憤慨を流し、きゅ、とその小さな手を上から覆うように、守るように握った。
「…足元に気をつけて。私もゆっくり歩くから、君も焦らず歩きなさい」
「だ………、…ああ、わかった…」
どこか釈然としないものを感じながら、エドワードは渋々手を引かれて歩き始めた。
人の気配のない森の中、新緑がきらきらと陽光を透かしていた。
[?]
しばらく歩くと、確かにロイの記憶通り、そこには集落の跡と思しきものが出現した。緑の中に埋もれた、それでもわずかに人の痕を残した無機物の残骸を、ロイは取り立てて何の感慨もなく見つめた。
日当たりのよい切り株の上、エドワードはロイに言われたように黙って座っている。
目を開けず、そして動くなと彼は少年に言ったのだ。
廃坑を抜けたこの場所は小高い山の中腹あたりに位置している。廃坑の入口、つまり彼らがここへ来るのに辿ってきた街道からの道に戻る為には、廃坑を抜けるか大きく廃坑を迂回するかしかない。しかし廃坑を抜けることは出来ない。さきほどの崩落で道はふさがれていたし、何より今度こそ崩落に巻き込まれかねない。
大掛かりに、いっそすべてを破壊するという手段もあるにはあった。もしくは、「なかったことにする」ことも。