箱庭
「……。…ごめん、変なこと言って。…あと、…見舞い着てくれて、ありがと。…あとこれも…」
…どれだけそうしていただろう。やがて、雲がふたりの姿を翳らせたとき、エドワードが静かにそう言った。そうして、己の肩にかけられたロイのコートをそっと突き返す。
「…ありがと」
動かないロイの手にコートを握らせるため、エドワードもまたすこしだけ身を屈めた。そして小さく笑う。
「…しばらくオレ、ここには…大佐のいるところには来ないよ」
さよなら、そう小さな赤い唇が動くのを、ロイは確かに見た。
こんなに同じ気持ちでいるのに、想いさえ告げないままに、さようならとエドワードが言うのを見ていた。
「……っ」
気の迷い、不安が生んだ幻想、本当の気持ちではない、危機的状況におかれたがゆえの恋―――
ロイはそれらの言葉に首を振って、今度こそ心の赴くまま、その両手を伸ばした。去っていこうとしていたエドワードは、逆らう事も許されずしっかりとした腕の中へその身をさらわれる。
「行くな」
短い声に、ふと、金の目が淡く滲む。
「…さよならなんて言わないでくれ」
強い風がエドワードの髪も頬もなぶる。だがその声を聞き逃す事はなかった。
「好きなんだ…」
「………」
エドワードが息を飲むのを感じながら、より強くその腕の中に小柄な体を抱き留める。あの夜にそうしていたように。
「…私も、思っていたよ」
ロイは噛み締めるように言った。
「…誰にもあのまま、…見つからなければよかったのにと」
忘れ去られた森の中、いつまでもふたりでいられたらと。
欠片も思わなかったといったら嘘になる。
「……っ」
少年が言葉にもならない声を鋭く上げた。ロイは狂おしくも思いながら顔を上げ、今は間近いところにまで引き寄せた白い顔をじっと見つめた。
「………」
やがて言葉もなく目を閉じると、顔を傾けてエドワードに近づけた。少年は途方に暮れたような顔をして、なすがままそれを受け入れる。近づいてきた、ロイの唇を。
やさしい触れ方だった。ただ触れるだけの口づけだった。
だが、どうしようもなく泣きたい気持ちになった。
「……なんで…」
離れた後、自らロイの胸に額を埋めて、エドワードは小さく言った。
「…なんでオレ達、…あそこから帰ってきちまったのかな…」
何と答えたものかロイにはやはり見当がつかなかった。いつだってそうなのだ。大事な時に言うべき言葉など何も思いつかない。普段はどうでもいいことをあんなにもすらすらと伸べられるのに。肝心な時には、なにひとつ、気の利いた事も言えないような男なのだ、自分は。
せめて言葉の代わり、引き寄せたエドワードの髪を何度もやさしく撫でておろした。
「…それでも私は、」
そして、何と説明したらよいのかわからない自分の気持ちをゆっくりと言葉にし始めた。エドワードは何も言わなかったが、聞いていないわけでもあるまい。
「…帰ってきても、…今この、普通の状況にあっても。はっきりと、…わかったんだ」
「…なにが?」
「…。気の迷いではないかと思っていた。…非日常的な環境におかれた人間が、不安を恋にすり返るのはよくある話だからね…」
ロイは小さく苦笑し、金色の、ただ今は流されているだけの髪を梳いた。
「…だがそんな風に迷っていた私こそ滑稽だ。…今でもいえるのさ。…君ともう一度、…あの箱庭の生活を始めることになっても、きっと迷いはしないと」
弾かれたようにエドワードは顔を上げた。
そして、小さな唇がわななく。
「………それって」
ただ慈しむように目を細め、男は小さく笑った。そして、そっと指でエドワードの唇をなぞる。
「…だった、なんて。終わった話にしないでくれ。…そう、願ってもいいかい」
少年はただ目を見開いて、信じられないものを見るような目でロイを見た。
―――自分も確かに思ってはいた。ロイと会わずにいたあの後の数日、考えていた。あれはきっと気の迷いだったと。だからロイが知らぬふりをしてくれてよかった、と。
だが。
まやかしでなど、あるはずがなかった。気の迷いであんなにも胸が痛むなど、ありえるはずがなかったのだ。
「…私は君が好きなんだ」
微塵も迷いのない瞳で言う男を、エドワードは瞬きもせず見つめていた。
雲が切れて再び光が射してきた時、ロイはそこに、輝かんばかりの金の塊を見つけ出す。
畏れていたまやかしではなく本当の日常の中に、心の奥で求めていたものを見つけ出す。
「…オレも…」
綻んだ口元から残りの言葉を性急に吸い取って、そして今度こそここから始めるのだ。
Fin.