箱庭
ロイは満足げに頷くと、踵を返して炭焼き小屋へと戻っていく。
今度は「ロイ・マスタング大佐」として戻らねばなるまい。
―――まやかしの夜は終わるのだから。
炭焼き小屋へと帰れば、集落跡の方が先に見つけられたのだろう。考えてみれば目印があるのだから当たり前の話で、森から帰ったロイが捜索隊と合流する形になった。
「…鋼の!」
部下達の中にただ一点、赤い姿を発見してロイは呼ぶ。その声に、少年はゆっくりと振り返る。
「……?」
驚いたのはその目が開いていた事。そして、その瞳がロイを捉え、一瞬だけ辛そうに眇められた事だった。
思わず男は固まって、言葉を失ってしまう。
しかし部下達はそんな機微はさして気にも留めなかったようで、ようやっと現れた大佐へと慌てて駆け寄っていく。彼の無事を確かめるためでもあったし、今後の指示を仰ぐためでもあった。
いくらか呆然としていた彼はそれでようやく我に返って、まずはエドワードを早く医師へ見せるようにと指示を下した。
エピローグ
不可思議な現象の報告された廃坑は、結局、ロイの手によりもう入りようもないくらいに完全に壊された。だが、中央への報告には、以前から進んでいた崩落が遂に全体に及んだ、とされていた。
大事の前の小事というやつだ。いずれにせよ、中に入れないまでに壊れたことに代わりはない。そして誰も中に入れないような場所で何が起ころうと、それは軍の関知するところではない。入っていく方が悪いのだ。酷なようだが、自己責任というものである。
勿論、不可解な現象をそのままにしておくことには、ロイにも多少のためらいがあった。だが、あんないつ崩落するか分からない場所に再び調査を入れることは危険だったし、また調査する為にあの場所を再建するのはさらにナンセンスである。とすれば、やはり無難に封印するのが一番という結論に辿り着くほかなかったのだ。
―――あれからエドワードとは一度も会っていない。
会えば動揺してしまう自分を知っていたからだ。だから、見舞いにも行かなかった。
「…エドワード君、今日包帯が取れるそうですよ」
書類を受取りしな、今日も一糸の乱れもない女性がそう言った。
ロイは瞬きして心の惑いをやり過ごす。
「…行かれないのですか?」
だが、そんなロイの苦労を知ってか知らずか、リザはそう尋ねてきた。
「…私がかね」
「他に何方がいらっしゃいますか。…大体、私は最初に申し上げました。二人だけで調査など危険です、と」
とぼけた答えを返したら、どうやら彼女のお気には召さなかったらしい。かなり最初の話を蒸し返された。やぶへびだったようだ。
「それを押し切った挙句に遭難して、さらにはエドワード君は目を痛めて。…大佐?いくら彼が国家錬金術師といえども、見舞いの一度くらいしても罰は当たらないと思いますが?」
情に流される女性ではないが、やはり女性は女性。母性本能とでもいうのか、彼女は意外と少年の肩を持つところがある。
「…わかった」
降参だ、と上官は両手を上げた。
それに、気になっていたのは確かなのだ。ただ、いつ本心が溢れてしまうかとそれが恐ろしく、会いにいけなかっただけで。
本当はずっと会いたかった。顔を、見たかったのだ。
あの目を。あの、強い目が自分を映し返すところを、もう一度。
病室へ行ったら、アルフォンスがロイを迎えた。エドワードは屋上にいるという。
「…今回の事は、すまなかった。君の兄さんを危ない目に遭わせた」
肉親の彼には、素直に頭を下げられた。
しかしアルフォンスはロイを責めず、いいえ、とただ短く返しただけだった。穏やかな声から内心を読むことは出来ず、ロイは、困ったように眉根を寄せた。
屋上へ行けば、そこには無数の白いシーツがはためいていた。こういうところは軍病院でも普通の病院でも変わらないものだな、とロイは思った。白くはためく布の向こう、ちらりと一瞬金が映る。
ロイは黙ってそちらへ歩いていく。
「……、…鋼の?」
一度息を深く吸ってから、ロイは、震えそうになる声を励まし、普段のようにそう呼んだ。
しかし、柵に寄りかかったまま眼下を見晴るかしているエドワードは振り向かない。肩さえぴくりともしなかった。ただ金の髪だけがばさばさと風に揺れている。
特に肌寒いということはないが風が強かった。いつから彼がこうしているのか判らないが、寒くないのだろうか、とロイは不安になる。そして思えば自然と体は動いていて、腕にかけていたコートを広げて彼に近づく。
「…冷やすのは体に毒だぞ」
ふわりとコートで肩を包み込んで、ロイは困ったようにそう話し掛けた。それでも、エドワードはこちらを振り向きもしない。
「……?鋼の…?」
ロイは眉根を寄せ、小さく呼びかけた。
―――それでも答えないエドワードに焦れて、ロイがその肩を掴み、膝を折って下から覗き込むようにした時のことだった。
ようやく、エドワードが口を開いたのだ。
「…大佐。…知ってるか」
「………? …鋼の?」
だが、彼が何を言わんとしているのかさっぱり見当がつかない。ロイは訝しげに首を捻った。
「…火の神アグニ」
ぽつりとエドワードが零した言葉に、ロイは息を飲む。
―――知っていた。何もかも彼は気付いていたのか。ロイの三文芝居に、気付いて彼は乗っていたのか。
「…古い神様の名前だって。本で調べたんだ」
泣き笑いのような顔を一瞬浮かべて、エドワードは言った。
「…オレ、…気がついてたよ。大佐だって。…でも言えなかった…」
静かな、静かな声音だった。深い思いに満ちた、けれどとても静かな声をしていた。
そしてロイの脳裏に蘇るのは、あの夜の言葉だ。
『オレが初めて好きになった人なんだ』
目を瞠り、ロイは、言葉を探して口を開く。しかし虚しくそれは閉じられた。彼には、どんな言葉を口にしたらいいのかさっぱりわからなかったのだ。
「…大佐」
エドワードは…、俯けていた顔を上げた。そしてうっすらと笑う。どこか消え入りそうな笑い方だった。
「…手を…」
膝を折ったままのロイを覗き込むように首を傾げて、エドワードは彼に手を出すようにといった。そして、数日前は自分がされていたように、その掌に綴る。
「……鋼、の…」
少年の指が綴った言葉に、ロイは今度こそ言葉を失った。
それでもオレはあんたが好きだった
「…。オレ、…捜索隊なんて、来なけりゃいいって」
エドワードは困ったように苦笑して、ロイの手を放した。それはだらんと落ちるが、双方ともに気に留めなかった。ロイはじっとエドワードを見つめていたし、エドワードもまた悲しげにロイを見つめていたから。
「…思ってたよ。あの時…」
「……っ」
ロイはたまらず顔を背けた。そして歯軋りせんばかりになりながら、何かを堪える。エドワードはといえば、そんなロイをただじっと見ていた。もはやかける言葉もなく、それでもただじっと見つめていた。
(…それでもオレはあんたが好きだったんだ。大佐)
明かすことのない心の中、一度だけそう呟いて。