コンビニ店員の俺と本田さんと各国の人々。1~21まとめ
びしりと鼻先に指を突きつけられた。…後日、それは耳にタコが出来るほど、うさぎさんの親父自慢を聞かされることになるのだが、それはまた別の話だ。
コンサート前々日、じいちゃんがピアノを調律に行くと言うので付いて行った。コンサートホールには貴族さんの希望でベーゼンドルファーが鎮座している。ばあちゃんのピアノと同じ、インペリアル「モデル290」。ベーゼンドルファーの代表機種で、標準の88鍵の下にさらに4?9組の弦が張られ、最低音を通常よりも長6度低いハ音とした完全8オクターブ、97鍵の鍵盤(エクステンドベース)を持つピアノとして有名らしい。
「このピアノはなかなか、気難しくてね。弾く奏者を選ぶ。中低音の響きは豊かだが、高音とのバランスを考えて弾かないと音の高低のバランスに狂いが生じる。奏者の力量が試されるピアノだ。ゆえにそのバランスを上手にとることが出来れば、至福の音色を奏でてくれる」
じいちゃんは作業用の眼鏡を掛け、道具の詰まった鞄を広げ、ピアノを撫でると、天屋根、上前側のパネル屋根(上の大きなふた)を開け、譜面台を外していく。鍵盤押さえ棒、弱音装置のマフラーバーなども外し、全体の音の狂いの程度の判断や、調律以外に必要な調整や修理箇所がないかを確認する為に鍵盤をひとつひとつ叩いていく。
「ちゃんと面倒を見てもらっているようだ。私の仕事は余りないようだね」
ぽろんぽろんと鳴るピアノにじいちゃんは嬉しそうに目を細め、チューニングの道具を手に取る。その手がいつも器用に動くのを魔法使いの手みたいだと子どもの頃の俺は眺めていた。それは今も変わることはない。じいちゃんは中音域の音を合わせ、真ん中の「ラ」の音を音叉の音とぴったり合うようにチューニングハンマーをチューニングピンの差し込んで弦をゆるめたり引っ張ったりして、音を聴く。その音を聴きながら、じいちゃんは思い出すように指先に集中していき、手を止めた。
「ローデさん、この音で良いか、確認してもらえませんかな?」
じいちゃんが視線を上げ、こちらを見てにっこりと笑う、客席に居た俺の隣にはいつの間にか貴族さんが立っていた。じいちゃんの作業を見ていたらしい。貴族さんは壇上へと続く階段を上がり、「ラ」の音を叩く。
「流石です。あの頃と同じ音です」
「体が覚えていたようです。あなたには何度も違うとダメ出しを受けましたからな」
「そのダメ出しに根気強く付き合ってくれた調律師はあなただけでしたよ。…さあ、続きをお願いします」
ピアノの前を貴族さんが譲ってじいちゃんがその前に立つ。中音域の音程を貴族さんのリクエストに応えながら、じいちゃんが調律を終え、低音域の調律に入った。そして、高音域と弦のユニゾンを合わせていく。
「…さてと。弾いてもらえますかな?」
顔を上げたじいちゃんがピアノの前を譲る。貴族さんは鍵盤を撫でる様に短い曲を奏で、眉を寄せた。
「高音域の「ファ」が気になります」
「少し緩かったですかな」
細かいやり取りを何度も繰り返し、…本当にじいちゃんは根気強いと言うか、貴族さんの細かい注文に丁寧に応えていく。気が付くと、昼前だったと言うのに日は沈み、夜になり、ばあちゃんが作ってくれた弁当は座席で広げられることもなくそのままになっていた。
「…ああ、久しぶりです。やはり、この音、この微妙なタッチも音色も、私の好みに叶う、理想そのものです。あなたが生きているうちにもう一度、あなたの調律したピアノを弾ける私は本当に幸せ者ですよ」
「大袈裟ですな。あなたのお陰で今の私がある。感謝しておりますよ、ローデさん。恩を返すことが出来て嬉しく思います」
完璧に仕事をやり遂げたじいちゃんは誇らしげな顔で笑い、じいちゃんの仕事を称えるように差し出された貴族さんの手を握り返した。
俺にとって、じいちゃんはピアノを歌わせる魔法の指を持った魔法使いだ。その魔法使いが魔法をかけたピアノを貴族さんが奏でる。その音は寸分の狂いもなく美しい音をホールに響かせた。
コンサート当日、家族揃って、六時開場七時開演の会場に向かう。会場は既に開演を待つ客がロビーに溢れていた。
「すごいひとだね」
「当たり前だろう。幻のピアニストの初の海外公演だからな」
「…そんなにすごいひとなんだ。…ローデさん」
その前評判と約二十五年ぶりにベルリンフィルの指揮を日本人が執るということもあって、聴衆の期待はそれはとても高い。何だか、周りの熱気に当てられて俺も興奮してきた。
(…うわー!何か、すげー緊張する)
何で演奏者でもない俺が緊張すんだと自分に突っ込みを入れつつ、ジタバタしたくなるのを堪えていると、後ろからむぎゅりとやられ、一瞬体が浮いて、思わず悲鳴を上げそうになった。驚いて振り返るとそこには、珍しく正装な細身の黒いスーツを着こなしたニヨニヨ顔のうさぎさんと呆れたような顔でうさぎさんを見るムキムキさんがいた。
「…っ!!」
「よう!ちゃんと聴きに来たか、偉いぞ!」
わしわしと折角セットした頭を乱される。一時間かけてセットしてきたのに酷い。
「ちょっと、やめてください!」
「ケセセ!お前の頭、小鳥の次に触り心地が俺好み!」
わしゃわしゃと更にやられて、元々クセっ毛な俺の頭は大変なことになった。…なんつーか、うさぎさんって本当に子どもだ。
「兄さん、いい加減にしろ。困ってるだろう」
べりっとムキムキさんが俺からうさぎさんを引っぺがしてくれた。
「皆で来てくれたんだな。ローデリッヒも喜ぶだろう。…キュウゾーの姿が見えないが…」
家族の顔を見渡し、ムキムキさんが眉を寄せた。
「じいちゃんは開演の数時間前にローデさんに呼び出されて、ホールに来てる筈ですけど…」
「最終調整か。アイツは本当に完璧主義者だな。キュウゾーも若くねぇんだから、あんまり無理させるようなことすんなよ」
「気合が入っていたし、久しぶりに自分の意に沿ったピアノを弾けるんだ。ローデリッヒも嬉しくって仕方がないんだろう」
開演のブザーがなる。俺たちはロビーから席に移動する。その席がコンサート関係者のみに配られるチケットだったらしく、凄いいい席で(ほぼステージが見渡せるど真ん中の前の方の席)周りから、羨望の視線を浴びてちくちくする。
「…こんないい席のチケット、頂いて良かったんですか?」
まさかこんな良席だとは思ってもいなかったので、隣に座ったうさぎさんに訊ねると、うさぎさんは眉を上げた。
「坊ちゃんが指定してきたんだよ。有り難く座っとけ」
「…そうなんですか。…後でお礼言わないとな」
「礼なんかよりも、演奏ちゃんと聴いて褒めてやったほうが喜ぶぜ」
「…ですね。心して聴きます」
開演の時間が近づき、じいちゃんが俺の隣にやってくる。うさぎさんとムキムキさんに会釈を返して、じいちゃんは座席に腰を下ろした。
開演のブザーが鳴り、緞帳が開いた。
作品名:コンビニ店員の俺と本田さんと各国の人々。1~21まとめ 作家名:冬故