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『さよなら』と呟いた

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彼が遠征に赴いていったいどれほどの月日がたったのだろうか。
陽の女神が上り、皆を暖かく照らして。
その女神が彼方へ沈み、月の女神が優しい腕(かいな)を差し出して、そっと眠る子供らを慈しむ行為が、もうどれほど繰り返されただろう。



そろそろ、帰ってくるの、まだ帰ってこないの。
怪我してるの、大丈夫なの。



そんな不安ばかりが胸を覆う。
これほど不安になったのはあの夢を見た所為。
聞き覚えのある声の、優しく誘う夢を。

「アルヴィン……アルヴィン……」

不安など思う必要などない。
彼は『父』に匹敵するとまで言われた力を持つ大天使。
だから、きっと、大丈夫、だと。
そう何度も強く、つよく心の中で言い聞かせた。

「え?」

彼の部下の一人、留守を預かっている天使から帰還の報告を受けた。
詳細は分からないものの、伝達が遅れてしまったようだが、どうやら日中には『楽園』に戻ってくるとこのこと。
ホッ、と心が安堵のため息を漏らした。
だが、すぐに湧き上がる不安。
アルヴィンは無事なのだろうか、と。
今回は然程の損害もなかった、と言ってはいたが詳細は分からない。
安堵に落ち着いたばかりの心が再び揺れ動く。
副官の天使に後を任せて、天空の桟橋へ走った。
帰還の報告を受けて、彼の師団の天使たちが慌ただしく動き回っている。
その邪魔にならないように、桟橋の隅で彼の帰りを待った。

「はやく、戻ってきて……無事な顔を、見せてよ……」

また、僕に笑顔を見せて……。
祈りを捧げる様に、胸のあたりを握りしめた。

「ッ……?」

ふ、と浮かぶ疑問。
どうして、こんなにも不安に思うのだろう。
アルヴィン程の力をもっていればそう簡単に傷を負うことも、消えてしまう(死ぬ)ことなんてない。
そう、分かっているはずなのに。
とめどなく沸き起こる不安と、込み上げてくる名前の知らない感情に首を傾げた。
その途端にグラグラと揺れるはずのない足場が揺れているように感じる。
催す吐き気。
留守を預かっているアルヴィンの副官である天使の不思議そうな視線を感じながら、ジュードは慌ててその場から走り去った。

違う、『コレ』は違うんだ…と言い聞かせる様に……。

住居エリアを走って抜けて、その先にある己の管理区域へと駆けこんだ。
いくつもの噴水と花が咲き誇る水場。
『生命』に溢れているはずのその場所が、少しだけ寂れているように見えるのは気のせいか。
ジュードは祈りを捧げる台座の傍の噴水へと駆け寄った。
手を翳し、水の球を作り出す。
そしてその球を自身の頭上で破裂させた。
降り注ぐ大量の水を頭から被る。

「ハッ……ハッ……」

そしてもう一度『違う』と呟いた。
彼が心配なのも、その身を案じるのも全て、すべて……――――。

「ジュード……?」
「………」

呼ばれた。
呼ばれてしまった、あの声で。
今、この瞬間、認めてはいけない、と。
違うのだと言い聞かせていた思いが再び花を開いてしまった。

「ジュー…ド…?」

ゆっくりと振り返る。
濡れた髪先から滴る水。
光が反射する。
まぶしい、眩しい存在。

(あぁ、そうか……僕は君が……――――)

ツキリ、と走る痛み。
見えぬ羽の付け根。
じわじわと、ナニかが蝕んでいくような感覚。
その痛みを、感覚を必死に取り繕う。
まだ、離れたくない、傍に居たいんだ、と願うように。
そして、君が好きだと言ってくれた笑顔を浮かべて言うんだ、何時ものように。




お帰り、と……。





なのに、君の顔が見えない。
水が視界の邪魔をする。
ねぇ、僕は笑えているのかな。
瞬きを繰り返して見たアルヴィンの、どこか悲壮なその顔に気付く。

「ちょっと……『失敗』しちゃった……」

そう告げた時の君の顔が……歪んで見えた。















空を駆ける飛空艇。
嵐のように空を覆うほどの数の悪魔を討伐し帰還を果たした。
橋が架けられる前にアルヴィンは甲板からひらりと身を投じた。

「……っと、はー、やっぱ揺れない足場の方が落ち着くなー」

ぐっ、と背を伸ばして、視線を周囲に走らせた。

「……?」

そしてあれ、と首を傾げる。
アルヴィンは呆れ顔で傍に来た副官が小言を言いだす前に手を突き出して制した。

「……ジュードの奴は?」

帰還の報せを送れば必ず桟橋で待っていた。
笑顔で出迎えて「お帰りなさい」と告げてくれたその姿がなかった。
アルヴィンの問いに副官は「あぁ」と、戸惑うように答える。

「ジュード様なら先ほどまで此処にいらっしゃいました。ですが……」
「なんだ?」
「その……突然顔色を悪くされて……貴方様がご帰還される少し前に、慌てたように立ち去ってしまわれました……」
「ッ!!」

嫌な予感が暗雲のように。言いようのない不安が胸を覆った。 
『大天使』の位ともなれば、生まれたばかりの天使たちに比べて身体に変調をきたすことはそうない。
だからこそ、見てしまった副官もまた戸惑ったのだろう。
早く、今すぐジュードの元に行かなければならないような、そんな思いに駆られた。
簡単な指示を飛ばして、後は副官に任せて走り出した。
回廊を行き交う人の間を縫うように抜ける。
胸の、頭の中心でなり続ける警鐘。
その音に追い立てられるように。
アルヴィンはジュードが居るであろう彼の管理区域まで駆け抜けた。
自分とは反対の属性の区域。
常ならば生命に溢れて、キラキラと輝いて見える場所。
管理する者の精神(こころ)のようだ、といつも思っていた場所は、何故だかとても悲しみに満ちていた。
視線を彷徨わせて探す。
あの綺麗な黒の髪を。
中央の台座。
あの子が『父』へと、そして全ての天使たちに『愛』の祝福を捧げる場所へと駆けた。

「ッ…ジュー…ッ」

呼びかけた声が詰まる。
頼りない背中。
ポタポタと髪や衣服から滴り落ちる水。
一体何があった、と問いかけようとして、声が出ない。
鳴っていた警鐘がいつの間にか聞こえなくなっていた。
嫌な予感は今も胸の鼓動を走らせているのに……。

「ジュード……?」

それでも、掠れた声で呼ぶ。
返事はない。
けれど、怯えたようにその双肩が震えたのは見えた。

(怯えている?何に?俺が居ない間何があった?)

渦巻く疑問はけれどどれ一つとして音に、声にならない。
出るのは、あの子の名前だけ。

「ジュー…ド…?」

呼びかけにゆっくりと振り返った顔。
まるで断罪に立つ者のようで……。
口を開きかけて、そして、笑みを浮かべた。
そんな顔、今は見たくはない。
何時ものように『お帰り』と、ただそう言ってくれ、頼む。
そんな願いも空しく、ただジュードは悲しみに満ちた顔で呟いた。

「ちょっと……『失敗』しちゃった……」

『失敗』と。
そう言って、笑った顔は泣いているようで……。
頭のドコか聞こえるで嘲笑。
ぐらり、と。
揺れるはずのない地面が傾いだ気がした。








「会えないって、どういう事だ!!」

怒声と、握った拳を壁に叩きつける。
あの後なんとか正気を取り戻して、アルヴィンはジュードの傍に掛け寄った。
作品名:『さよなら』と呟いた 作家名:蒼稀