太陽と月と星(後)
マスタング少将が北へ、いや、周辺諸国との友好条約を結ぶために本国を出立してから、既に半年が過ぎていた。
早いとは言えないが、定期的な報告は彼を代表とする使節団から届けられており、それによれば、およそ二ヶ月ほどをかけ、ドラクマとの条約を再度締結した後、西部へと入ったところまでは本国に情報が伝わってきていた。
送り出した時と、条約が締結された時はさすがに熱狂に沸いたアメストリスだったが、人の心は移ろいやすい。大方の民衆が、そういえばそんな軍人もいた、くらいにしか今は思っていないかもしれない。
彼の出発の直前、その性別をそれまで偽っていたのが知れた国家錬金術師、もっとも民衆に親しまれる者は、幼さを理由に使節団には含まれなかったが、その後国内でどこにいるのか…杳として知れなかった。それまでは定期的に小さな騒ぎを起こしては新聞を賑わしていた彼女にしては、不気味なような気もする雲隠れだった。
当初、その才能を理由に、実際は恐らくマスタングを外へ出したことにより、彼についていた諸勢力がばらつく、あるいは何らかの反抗的な動きを見せることを警戒した上層部は、エドワード・エルリックを中央に召集し、何らかの、態のいい任を与えて拘束するつもりでいた。しかし、それには思わぬところから横槍が入ることになり、断念せざるを得なくなった。
エドワードは今、アームストロング財団と提携し、地方で教育事業に力を貸している。…と、いうことになっている。その地で古代の遺跡が発掘され、そこには錬金術と思しき痕跡が認められたが、その解析を行えるような高度な錬金術師は国家錬金術師以外にありえなかった。そのため、アームストロングは旧知の仲であるエドワードにその解析を依頼したのだ、と。
アームストロングといえば、かつては自身も軍に籍を置いていた国家錬金術師であり、また、由緒正しき名門の家柄である。当然軍上層部にも浅からぬ縁があり、彼が後ろ盾についてしまえば、相手が民間だとて大上段に命令を振りかざすわけにも行かなかったのだ。
さらに、どうやら彼には企業家としての才もあったらしく、上げた利益の少なくはない額を寄付金として国にも納めていた。それゆえに、なおさら文句のつけようがなかったのだ。
「…大丈夫か?」
紙のように白い顔をした少女に、屋敷の主人は心配げに問いかける。
「…オレは、平気。…それより、アルは…」
おろした真っ直ぐの金の髪。それと同色の濃い金色の瞳。
…それは確かにエドワード・エルリックに違いなかった。
だが、その青白い肌を、彼女を知る者が見たら目を剥いて、これは他人かと己が目を疑うに違いない。
以前の彼女は、いや、彼として知られていた少女は、確かに元の色素は薄かったかもしれないが、健康的に日に焼けた肌をしていた。それが今はどうだ。紙のように白い肌は病弱そうで、以前の彼女の姿を想起させるのを困難にしている。
その翳った印象の中、なおさら濃さを深めたような瞳が、屋敷の主人を強く見上げる。その強さだけは、以前と寸分の違いない、エドワード・エルリックに他ならなかった。
「アルフォンスなら、眠っている。人をつけてある。何かあればすぐにおぬしに知らせる。…だからおぬしはまず、自分の体を休めることだ。エドワード・エルリック」
大きな体をかがめて、主人―――アレックス・ルイ・アームストロングは気遣うように声をかけた。それに、少女は黙って首を振る。
「…じゃあ、寝顔、見たい」
「エドワード・エルリック…」
「…。オレが、傍についてたい…。少佐」
お願い、と瞳を上げた少女に、アームストロングは溜息をつき、肩をすくめた。そしてチャーミングに片目を瞑ると、こう、申し出るのだ。
「―――その少佐、というのをやめてくれたら、考えよう。等価交換、であろう?」
意外な申し出に目を瞬かせた後、…ほんの少し照れくさそうに彼女は笑った。そして唇を開く。
「わかった。…その、…ルイさん」
―――エドワード・エルリックとアルフォンス・エルリックが負った業は深い。
それを知るのは、ごく直近の者達だけだ。
そしてこれからは、誰もがそれを知らない世の中になる。
ただふたり、それを乗り越えた本人達以外には、誰も知らない世の中が。
(…だがそれこそが本当の業であり、贖罪の第一歩であろう?)
大きなベッドに埋もれるように眠る「少年」と、その枕辺でじっと動かない少女を見守りながら、アームストロングは目を細める。
…彼らが長年の目的を果たしたのは、半月ほど前のことであった。
ふたりが研究と研鑽を重ねていたことは、知っていた。だがそれをいつ、どこでどうやって果たそうとしているのかは、わからなかった。
だが、引き金は引かれたのだ。
ロイの出立が、大きなきっかけになったのは想像に難くない。必ず帰ってくると約した彼を迎えるのが、鎧の体では、鋼の義肢を持つ体では相応しくない。恐らくそういうことなのだろうと思う。
ただ単純にタイミングが重なっただけという可能性も否定できないが、夢見がちであったとしても、そういう過程があったのだと思った方が、アームストロングの好みにはあっていた。
彼らがどういう風に乗り越えて、かつての後悔を未来への糧にしていくのかは、わからない。楽しいことばかりではないだろうし、なお悔やむことも多かろう。だがしかし、生きていればきっと、たどり着けると思うのだ。
―――たとえば幸せとか、そういった境地に。
「…アル」
眠る弟の手をそっと握る、少女の右手は、白い色をしていた。
(…次はあなたの番ですな、…少将)
[太陽と月と星/Goin’ home]
アメストリス中央図書館は、かつては軍属の組織のひとつであった。
しかし次の年度からは、軍からは独立した「国立図書館」となる予定になっている。これは知識を権力が独占することの恐ろしさを鑑み、…つまり、独裁下での情報統制は自由主義の妨げになるという考えの下、採択された流れであった。
そして、そこには、並行して、軍―――いや、大総統という個人に権力が集中する体制から議会を頂く分権政治への移行が進んでいる影響も少なからずあった。ただ、議会を興すために必要なものが今の所大幅に不足しているため、先にそういった外郭の組織から順次軍という巨大な権力から剥がされていくという状況だ、とでも言えばいいだろうか。
ちなみに統一議会を発足するために今最も不足しているのは、人材である。
そして言うまでもないことだが、軍部はそれらの動きを面白くは思っていない。少なくとも、軍上層部は。
もしも先行して軍部から独立する中央図書館が何らかの問題を起こせば、それ見たことかと大勢への反抗を明らかにするだろう。そして軍にはまだ、実際の力があった。それをあえて眠らせているのは、国外からの脅威が完全には取り除かれていないからである。内と外で同時に混乱があっては、さしもの軍部にもどうしようもないのだ。
ゆえに、もしも今騒ぎがあったなら―――
ようやく独裁から解放されたかに見えたアメストリスに再び暗雲が広がる、ということであった。