太陽と月と星(後)
かつてより入館規定が緩くなった中央図書館には、以前より多くの人々が訪れるようになった。無論、未だ一般には公開できない資料、文献の類もあるが、それはそれとしてもその蔵書量はさすがといったもので、訪れる人々を思惟の海へと誘っていた。
だが人が増えれば当然問題も増える。図書館という性質ゆえ、あまり騒がしいのは好まれないのだが、中にはやはりそういった常識の通じない輩もいる。また、司書というのはやはり大人しい性質の人が多いのか、言い方はよくないが舐められがちなのかもしれない。
しかし、中央図書館の職員達は、今の難しい状況をよく理解していた。今このタイミングで、もしも大きな事件が起こったら、アメストリスの未来への足取りは確実に鈍くなる。それだけは、してはならないのだ。
だからこそ―――
「…すいませんっ、あの、変な人が騒いでて…、何とかしてもらえませんか?」
ここ、図書館でしょう?
困ったように訴える婦人を、カウンターの中で三人の司書が迎える。
いかにも困ったというように訴えるご婦人だが、…要するに何とかしろ、ということである。利用客のモラルにまで施設に責任を問われても困るというものだが、そんな理屈は市民には通用しない。
「どちらになりますか?」
応対して声を発したのは、落ち着いた雰囲気の、二十代後半から三十代くらいの女性だった。その下手に出た対応に気を良くしたのか、ご婦人の口は滑りがよくなる。
曰く、昼間から酔っ払ったような男がエントランスすぐの児童コーナーへやってきて管を巻いているのだそうだ。
「児童…、それはいけませんね」
司書の顔がゆがめられた。休日の今日、児童コーナーには親に連れてこられた小さな子供もいるだろう。これは、充分に憂慮すべき事態であろう。
「シーラ。ちょっと行ってきてもらえる?」
女性は斜め後ろを振り返り、黒い髪を高く結ったまだ若そうな女性にそう告げる。
「はい。館長」
この答えに、あらこの人は館長さんだったの、とご夫人の目が丸くなる。
「よろしくね」
シーラと呼ばれた背の高い女性は、きびきびした動きでカウンターを出た。その背中に「大丈夫かしら」という目を向けるご婦人に、女性館長が声をかける。
「お知らせくださり、ありがとうございました。館内のことで何かありましたら、またお声をかけてくださいね」
にこり、と笑うとやさしげで愛嬌のある女性だった。
シーラが児童コーナーへ行くと、確かにそこには酔っ払い、らしき人間がいた。しかし既に暴れても騒いでもいなかった。
「…エトワール」
いかにもという男が床に這い蹲り縮こまり、なぜかひとりの、少女のような少年のような人物に謝り倒しているのだ。仁王立ちになって腕組みをしているその少女には、シーラも面識があった。一週間前からこの図書館へ臨時で雇い入れられた司書見習いだからだ。
呆れたようにシーラが呟いたのは、その少女の名である。
「すいません、本当にすいません!」
「ごめんで済んだら憲兵いらねーんだよ」
取り付く島もないといった勢いで凄む小柄な少女の後ろには、半べその子供と若い母親。なんとなく事情が飲み込めたシーラは、それ以上同僚のボルテージが上がる前にと早足になる。
「大体なあ、ここどこだと思ってんだ!図書館だ、図書館は何するところだ言ってみろ」
「…え…」
「本を読むところだっつーの!間違っても酒飲んで暴れる所じゃねぇんだよ…しかもこんな子供がいっぱいいるところでおまえアホか?あ?いい大人が何やってんだよ真昼間から!」
これはよほど頭にきているらしい。
…黙っていれば可愛いのに、とシーラは残念に思う。金色の髪に金色の大きな瞳の少女は、黙っていればたいへんな美少女なのだ。いまひとつ丸みにかけるせいで美少年、にも見えるのが難点だが、少なくともシーラはエトワールが好きだった。
「エトワール!」
肩につくかどうか、の金色の髪が、少女が振り返る動きに合わせて揺れた。光を弾いて、それは随分と美しく映った。
「シーラ」
「…まずはご苦労様と言っておくわ。…でも、そこまでよ。…おじさん」
エトワールの横に立ち、シーラは厳かに、土下座する男を見下ろし呼びかけた。近くで見れば、予想通り男には乱闘の後。この少女に叩きのめされたに違いない。
「まずは奥でお話伺いますわ。来てくださいますね」
にこり。
それは有無を言わさぬ強い笑みであった。
反論を許さないほどに。
かつては憲兵なり情報部関連の部署の軍人なりが、中央図書館を警護していた。重要な機密も保管されていたからだ。
今でも警護の人間がいないわけではないが、かつてほどに警戒されているわけでもない。
そこで、中央図書館は、秘密裏に一見してはそれとわからぬ警備の人間を館内に配していた。これは、関係者以外誰も知らぬことである。
「今日も暴れたの?エトワール」
「…暴れてません」
「暴れてたでしょ。館長、…本当に大丈夫なんですか?」
黒髪を高く結ったシーラが、呆れたように溜息つきつつ上司に尋ねる。それには、尋ねられたのとは違う相手から抗議が上がる。
「大丈夫に決まってるだろ!」
「あなたには聞いてません」
―――はるか東の方、シン国の流れを汲むというどこかエキゾチックな顔立ちの女性は、やはり呆れたように答えた。
「そうねえ…、あまり目立つのは、得策ではないと思うのだけど?」
館長は、楽しそうに目を細め、エトワールを見つめた。
途端にうっと詰まったエトワールの向かいから、閉館後の図書館に残っていたもうひとりがくすりと笑う。
「でも、エドワードさんなんですもん。派手にするな、って言うのが難しいですよ」
栗色の髪は肩につくくらい、大きな眼鏡に妙な愛嬌のある若々しい女性が、楽しそうに言う。
「シェスカ…だから、今は“エトワール”なんだってば…」
溜息つきつつ、以前より短くした金髪をかきあげる少女―――エトワール、いや、エドワード・エルリックは、困ったように苦笑して言った。
「その通りね。今のあなたはエトワール・コール。私、フランチェスカ・コールの姪っ子で、アームストロング氏の推薦を受けてやってきた新米司書、だわ」
館長、フランチェスカは笑みをたたえて言う。
「なぜそんな面倒なことをしているか、あなたはわかっているわよね?」
「…オレが、中央のエライさん達に利用されることがあったら困るから。後、図書館に変な因縁つけられたら困るから」
両手を上げて、降参、とばかりエドワードは答えてみせる。
「わかってくれてるようで嬉しいわ。では、今日のような騒ぎは困るのは、わかるわね?」
「…はい」
「あなたは大事な預かり物なのだから。お願いだから、大事に預かられていて頂戴」
困ったように笑うフランチェスカに、エドワードは渋々頷いた。
…一週間前。
彼女は、アームストロングに、中央の軍上層部から再三に渡りエドワードへの召集がかかっていることを告げられた。それらは皆どれも強制力を持つものではなく、アームストロングが断りを入れるだけでも回避できるようなものだったのだが、彼らがエドワードを狙っているのは明らかだった。