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近いか遠いか、そんなの手を伸ばせば分かる事じゃない

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 蟇郡は昔から、欲しがることのない子供だった。
 元々あまり欲がなかったのかもしれないし、母親や身を寄せていた家庭がそこまで豊かと言える暮らしをしていなかったからかもしれない。
 といってももしかしたら本当は口にしないだけでほしいおもちゃがあったのかもしれない。父が欲しいと思ったこともあったのかもしれない。しかしもしそうであったとしても今の彼はそんなことはすっかり忘れていた。
 反対に、彼は何かを望まれればそれに応える人間だった。望まれるからそれを成し、助けを求められればそれにこたえた。
 しかし、そのときの彼は、応えることができなかった。

 悲鳴と怒号が渦巻くスタジアムを服が覆っていく。薄っぺらい服に吊り上げられた人々を助け、襲い掛かってくる厚みのある服を殴り飛ばす。人々を助けなければ、皐月様を助けなければ。周囲は勿論自身も混乱と焦燥で極限状態にいた蟇郡の意識を、悲鳴からは程遠いとぼけた驚愕の声が引き裂いた。
 引き裂かれたと、思った。
 まるで見えない糸にぐいと引かれたかのように声の方を向く。そこには、いつも通りの水色と白の無星制服を着た見慣れた少女が、生命繊維に吊られて宙に浮いてバタバタと手足を動かしてもがいていた。
 その姿を認めた時、ざぁっ、と蟇郡の全身の血の気が引いた。
 手を伸ばす。
 人がきをかけ分け、糸に繰られるように彼は駆けた。もしかしてその時に弾いた人間もいたかもしれない。彼が走る傍で少女と同じく生命繊維に食われようとしていた人間もいたのかもしれない。しかしそのときの彼には少女以外の何も見えなかった。
 手を伸ばす。
 誰かが少女に飛びつこうとして届かず、届かず、そして弾かれた。彼女の名前を呼ぶ悲愴な声の脇で彼は跳躍した。
 満艦飾、そう彼女の名前を叫んで、手をのばした。
 手は、届かなかった。
 彼は人間を取り込んだ服達に飛びかかられ、地面に押さえつけられた。体が動かない。手も伸ばせない。何もできない彼は、少女が衣服にとりこまれるのをただ見ることしかできなかった。
 そのときの、そして今も引きずっている絶望感、喪失感、後悔。
 そして彼は、少女が自身の中で占める大きさに気づかされた。彼女と話して愉しくなる理由。彼女に目ざとく気づいてしまう理由。彼女の存在に動揺する理由。彼女が危険な目にあいかけたら冷静でいられない理由。彼女を傷つけることができない理由。彼女の声があの狂騒の中で彼に届いた理由。彼女の元へなりふり構わず駆けた理由。彼女を何物よりも求める理由。彼は、彼女を失って、乱暴に目の前に叩きつけられたそれらの理由から目をそむけることはできなかった。

 蟇郡は、どうしようもなく、少女に恋をしていた。