小さな暖かさ
ふわふわな紅茶色の巻き毛が見る影もなくぺったりと額や襟足に付き、毛先からはポタポタと水滴が落ちている。
この初春と言うには寒すぎる気温に、降り出した雨は正直言ってみぞれ交じりだ。
「何をしてるんだね?! 君は!!」
私は驚きと心配から、つい叱責する様な声をかけてしまった。
濡れそぼった細い肩が、ビクリッと揺れる。
彼が立つ足元には、早くも小さな水たまりが出来てきていた。
「早く上がって服を着替え…その前にシャワーだ!」
私は浴室へと駆けていくと、常備していたバスタオルを二枚ひっつかんで玄関ポーチへと取って返した。そして、彼の頭に一枚をかけて、もう一枚で腰から腹を包むように縛ろうとした。
フギャッ!
「つっ!!」
同時に二つの声が聞こえ、彼の表情が痛みを表した事に私は手の力を抜いた。
「アムロ。君、そのジャケットの中に何を囲っているのかな」
「…子ネコ…」
「子猫? どこで救済したんだ?」
「メインストリートの低木の街路樹の下」
「…君は確か、明日の朝食用のバケットを、お気に入りのパン工房に買いに出かけた筈だったな」
「そうだよ! 行ったさ? 工房に。そしたら、その手前の街路樹の下に、こいつが濡れ鼠状態で蹲って、消えそうな声で鳴いてたんだ。そんなの見たら、パンなんてどうでもよくなっちゃって…」
「で、懐に入れて連れてきてしまったと?」
「だって! そのままにしといたら半日もしないうちにこいつ死んじまう! 助けられる命は助けたいんだよ! オレは!!」
「君のその信条のお蔭で今の私の命があるのだから、それを非難しようなんて思ってはいないよ。ただ、まだ、万全とは言いかねる君の体調が崩れる事を、私は何よりも厭うているんだと知って欲しかっただけなんだ」
私はそう言うと、彼を横抱きにして浴室へと足を進めた。
「ちょっと? シャア」
「暴れないでくれないか。君は全身濡れきってしまっている。そんな足で廊下を歩かれたら、後の掃除が大変になるだろう? それに、どうせシャワーを浴びるんだ。そのまま浴室に直行しても、なんら問題にならんだろう」
そのまま脱衣所に入り彼を立たせると、私は有無を言わさず彼の着衣をはぎ取った。
ジャケットの中から茶色の濡れ鼠の様な子猫が転がり出てくる。
「この猫も一緒にシャワーで温めた方が早いな」
「じゃあ、一緒に入るよ」
アムロはそう言うと、猫の腹に腕を入れて抱き上げ、私が出しておいたシャワーの下に入り込もうとした。
「っ! イッタ! 痛いってば! 落ち着いてくれよ。酷い事するわけじゃっ!」
濡れた衣服を片付けようとした私の背後から、彼の切羽詰まった声が聞こえた。
振り返ると、子猫が彼の腕と言わず腹と言わず四肢をがむしゃらに振って引っ掻いているのが見える。
私は瞬時に頭に血が上った。
「いい加減にしないかっ! 貴様を助けようとする天使に危害を加えるとは、何を考えている!! 今すぐ止めないと、その頭を水に押し込んで抵抗などする事の出来ない世界へ飛ばしてやるぞ!!」
私は子猫の頭を鷲掴むと、動物愛護協会に聞かれたらまごう事無く「虐待!」と言われる事を大声で怒鳴り、睨みつけた。
子猫は目を最大限に見開き、瞳孔を真円にして硬直する。
と同時に、子猫を抱いている彼も真っ裸で固まった。
降り注ぐシャワーが私の着衣まで濡れさせる。
「面倒だ。バスに湯を張って一緒に温まる。…ああ、その前に」
私はリビングへ行き、チェストの引き出しから爪切りを取り出してから、浴室へと戻った。
「猫を押さえていてくれ。鋭利な爪先だけ切っておく」
私は小さな指球を押さえて小さな三日月を出させると、先端の部分だけカットした。
20本全部をカットするのにかかった時間はわずか数分。
先ほどの恐喝まがいの怒号が、猫をフリーズしていたからだ。
「君の傷は後から消毒をするとしよう。今は二人と一匹で、湯で温まるのが最優先だ」
私はアムロを抱き上げると、浴槽を跨いで湯に浸かった。
暴れるかと警戒したが、子猫は温かい湯に全身を脱力させてフリフリと長い尻尾を湯の中で振っている。
存外、気に入ったらしくて安心した。
これ以上彼の体に傷を付けられるのは噴飯ものだったから。
その彼も、私の胸に背中を預けてリラックスしてくれて居る様で、私は心の底から嬉しくなった。
こうして10分ほど使って芯から温まると、次は猫と彼の乾燥だ。
彼をビーチタオルで包んでおいて、破棄しようかと脇に避けておいたバスタオルで猫をワッシワッシと拭き上げ、弱風に設定した足元用のファンヒーターの前に置く。さすれば、動物の本能に従って子猫は身体を舐めて整えだした。
「さて、次は君の番だな。こちらに座って」
私はガウン一枚でアムロを呼ぶと、暖炉の前に椅子を置いて、そこに彼を座らせた。
「えっ? 自分ででき…」
「君の髪は絡みやすいのだよ。みぞれで濡れてしまってトリートメントをしていない濡れ髪だ。いつもの調子でドライヤーをかけたりしたら、とんでもない事になってしまう。任せたまえ。綺麗に仕上げてみせよう」
戸惑う彼を優しく誘い、私は心行くまで彼の巻き毛に指を通して、温風を梳きこむ様にしながら髪をふんわりと乾かした。
こんな雨の日なのに、彼の髪からは日向の香りがしてくる。
私は、この香りにいつも癒されているのだ。思わず頬を摺り寄せてしまう。
「はぇ?? シャ、ア?」
「うん。しっかりと乾いたようだね。これなら熱を出す事も無いだろう。猫もすっかり乾いて気分が良くなったのだろうね。ほら」
思わぬ触感にアムロが驚かない様に意識を別へ向けさせると、素直な彼は、ファンヒーターの前で丸くなってゆったりと腹を上下する小さな生き物に相好をくずした。
そんな彼を背後から軽く抱きしめる様にして、二人で眠る猫を見詰める静かなひと時が流れた。