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I’m mine.

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 だから、と少女は言った。黙って座っているだけならば、貴族の姫だと偽られても気づかぬかも知れなかった。しかし残念ながら、彼女はそのような娘ではなかった。
 気の強そうな目を、泰衡に向けていた。睨まれているのではなかったが、随分と力を込めて見られていた。
「だから、もう秀衡さんの許可はもらいました」
「……御館をどう丸め込んだかは存じ上げぬが、そのような世迷言を口にするのはおやめ頂きたい」
「ヨマイゴトじゃありません。本当ですよ」
 それまで、泰衡はあまり彼女には目もくれず、文机に向かい、経を写していた。久方振りに、経文を書き綴りながら、心を落ち着けたかった。そうすることで、先のことをより深く考えたかった。しかし、それは今、目の前の少女の存在がゆえに、阻まれている。ここに至り、とうとう耐えかねて彼女を睨んだ。
「昨夜、御館に酒を注ぎながらその話をしたと仰ったな?」
「え、ええ」
「ならば、御館も酔っていらしたのだろう。正しい判断のできぬ状態だったゆえに、そのような戯言を認めたに過ぎぬ」
「そ、そんなこと!」
 泰衡は冷たく息をついた。その音を聞き、彼女は少々たじろいだように見える。
 文机に、そこに敷いた料紙に、あるいは己の指が支える筆の先に、視線を落としてしまう。彼女の姿は、視界に入らなくなった。しかし、気配はまだそこにある。
「それなら、もう一度確認します。酔ってない秀衡さんにちゃんと認めてもらえばいいんですよね?」
「神子殿」
 思わず彼女を呼び止めた。声は冷たい響きをしていたことだろう。
 顔を上げると、彼女は泰衡に対して挑むような顔つきを見せていた。ずいと、膝でこちらに詰め寄ってくる。
「あなたは、愚かだ」
「――知ってます」
 泰衡の蔑む言葉にも、もう怯まなかった。
「何一つ、あなたに益があるとは思えん」
「得をしたくて、望んでるわけじゃないです」
「理解し難い」
「理解しようとしないからよ」
 これでは無意味な言葉の応酬を繰り返すだけになりかねない。ただ心静かに過ごそうとしていただけなのに、全く正反対の状況に置かれている。苛立つよりも先に、憐れだと考える。
 筆を硯の縁に置き、まっすぐに彼女の姿を両の目に捉える。少しだけ、相手が緊張を増したように見受けられた。
「故郷をお捨てになると?」
「いけませんか?」
「神子殿、あなたが激情に任せて考えなしの行動にお出になり、いずれ後悔なさることが目に見えると言うのに、それを敢えて受け入れたいとは思わない」
 それまでと打って変わり、彼女は泰衡の言葉を全て聞いても反論を返すどころか、押し黙ってしまった。
 どこか不可思議なものが目の前にあるかのように、大きく目を瞬いて、泰衡を真正面から見つめる。奇妙に居心地が悪くなる。そのような目で見られるようなことを発言したつもりはなかった。泰衡が言ったのは、正論のはずだ。しかし、それを理解せずに喚き散らす彼女を想像していても、このように言葉もなく泰衡を見つめるばかりの彼女は予想しなかった。
 泰衡の眉間の皺が、とうとう不愉快を感じたときのように深く刻まれると、相手は目尻の力を抜いたように見える。
 ふっと、口元を緩め、微笑みさえする。
「故郷を捨てるんじゃなくて、ただ、自分の生き方を選んだだけです」
「詭弁だな」
 どのように言い換えても、事実は変わらない。そうかも知れませんけど、と彼女は返してきたが、反論ではあっても反発ではない。
 膝を擦り合わせて、泰衡に近づいてきた彼女は、退きかけた彼のことを間近から見上げる。口元には笑みが浮かんでいるが、瞳は真剣そのものと言った風情だ。
「私は、泰衡さんと生きたいです」
 聞き間違えることさえ難しいほど、はっきりと告げられた。
 傍に置くようになってからは、随分と経ったような気がする。実質は半年ほどか。単に、彼女が頻繁に、好き勝手に泰衡の元を訪れるのだ。文字通り、ただ泰衡の傍にいた、それだけだ。追い出したこともあったが、徐々にそれも面倒になって、結局それが当たり前になった。
 そう思っていたら、いきなりこのような話を持ち出された。
 ――私、泰衡さんの奥さんになりたいんです。あなたの傍で生きていたいんです。
 あまりにも唐突に過ぎる申し出と、さらには彼自身の実父の許しも得ているという事実に、眩暈がするかと思ったほどだ。
「ねえ、そんなに私を嫌いですか?」
「好悪の問題ではないだろう」
「好きか嫌いかの問題ですよ」
 男女の仲のことならば、その理屈も確かなものか。この場合は泰衡が野暮と言うことになるのだろうか。それにしても、受け入れ難いとは思う。
「私が後悔するかもしれないって心配してくれるなら、私が元の世界にってから後悔することを考えてくれてもいいんじゃありませんか?」
 先程までは挑むように言葉を募らせていた彼女も、何故か今は落ち着いていた。
 後悔という二文字は、しかしそれだけでは表し切れぬほど重いものだ。泰衡は後悔をしないために、日々を生きようとしている。どんな選択をしても、決して悔いることのないよう、最善を尽くす。それが、彼の生き方だ。
 同じように、目の前にいる人にも、後悔をさせたいとは思わない。たとえば、今、彼女の申し出を受け入れたとする。数年後に、彼女がここに生きると選んだことを、悔いてしまわないとも限らない。それは、泰衡の心ではないので、彼には抑えることのできないものだ。他人の心の動きを、止める術などありはしない。
 今、彼女が言うように、この世界で生きることであっても、ここではない世界で生きるとしても、後悔などどちらにもあり得る。片方を選べば片方が惜しくなるのは、人の心の必然的な流れでもあるだろう。
 しかし、取り返しのつかない未来を選んだために後悔するのなら、まだ有益と思える方を選ぶべきだと泰衡は考える。本当に生まれた場所で生きることこそ、彼女に必要なことではないかと思う。
 だが、彼女は泰衡の言葉を受け入れる気がないようだった。
「後悔するなら、私はあなたのいる後悔がいい」
 それこそ、詭弁でしかない。今、突っ走った願いを口にしているに過ぎない。本当に未来のことを、深く考えているとは思えない。
 少女は笑う。笑っている。だって、と言う。
「好きなんです、泰衡さんのこと」
 これが、一番の世迷言だ。
 息を吐いた。長く、重く、吐き出してしまうしかなかった。
 駄目だと否定し続けても、彼女が折れるような気がしない。毎日毎日、泰衡の元を訪れては、妻になりたいと言い張るに違いない。簡単に予想がつく。
「一つ申し上げておきたいのだが」
 泰衡が切り出すと、なんですか、と神妙に頷いた彼女に告げる。
「俺は奥州のためにこの命をも捧げるつもりでいる」
「……はい、知ってます」
「この心もまた、他人に明け渡す気はない。奥州のために生きると決めた心は、俺自身のこの考えのためにだけ傾く」
 奥州のために生きる。故郷を守り、発展させるためだけに、彼はこの命を捧げ、そしてそのためだけに存在するこの心は、自身の故郷への思いに占められている。
「それも、何となくは分かってます」
作品名:I’m mine. 作家名:川村菜桜