I’m mine.
少し寒気がして、肩が震えた。重い瞼を上げると、西日に照らされた朱色の室内に、薬師がいた。だが、あまり顔を合わせて嬉しい相手ではなかった。何しろ、それは武蔵坊弁慶だったのだから。
「目が覚めましたか」
にこりと、弁慶は柔和に微笑んだが、こちらは臍を噛むような思いだ。人の気配に気づくことなく眠っていたことを、激しく悔いる。だが、そんな泰衡を見下ろしている弁慶は、額に置かれていた濡れた手拭を持ち上げ、直に掌を当てる。僅かに思案顔を見せたものの、弁慶は一つ頷いてみせた。
「どうもまだ熱が高いようですね」
「……熱?」
手拭を手水の桶でまた濡らしてから、改めて冷たくなったそれを泰衡の額に載せた。ひやりとして、首を竦めたくなったがどうにか耐えた。
「平泉も大分寒くなってきましたからね。疲労していたために、体調が崩れたんでしょう」
分かりやすい体調の崩し方だ。思わず苦い顔を見せてしまう。弁慶は苦笑を見せたが、特に何も言わなかった。
素早く支度を整えて、
「二、三日はよく休んでください。銀殿たちにも話しておきますので」
出て行く手前にそのように言い置かれた弁慶の言葉に、すぐさま上半身を起こした。
「そんなに休んではいられん」
そして、素早く言い切る。郎党や家人に注意を促されては、休まざるを得ないだろう。少なくとも、銀は居室を出ようとする泰衡を止めに入るだろうし、それが叶わなければ妻に助言を請うだろう。冗談ではなかった。
弁慶は息を吐く。困ったな、と零した。
「大したことはないと思っているのでしょうが」
「実際、そうだ」
「自覚がないだけですよ。泰衡殿、あなたは疲労に慣れて、鈍くなっています。ここは、薬師の僕の言うことを聞いた方が得策だと思いますよ」
「こちらは忙しい身の上だ。一日も惜しいと言うのに」
焦燥が募るのは、まだ自分が何も成し遂げていないからだろうか。今、奥州藤原氏が三代続けて守り育ててきた奥州、平泉にさらなる発展を、安寧をもたらしたい。それが泰衡の最大の願いであり、自身に課されていることでもある。
だが、今は目の前にすべきことがある。山と積み上げられるほどあると言うのに、何もせずに休んでいるなど、彼には考えられない。
「今は大したことはないようだからいいですが、もしこのまま己の疲労さえ、体調不良でさえ、切り捨てて無理をして倒れたなら、数日休んだだけではなく、それこそ本当に治ることのない病になるかもしれませんよ?」
「脅しか、それは?」
鼻で笑うと、いいえ、と弁慶は真顔で答える。
「あなたは自分の死すら、厭わぬ男だと、僕は承知しています。脅しにはならないでしょう」
「では、何が言いたい?」
「そのままです。事実をただお伝えしただけですから、言葉どおりに受け取ってください」
このまま無茶をしていると、いずれ不治の病にかかる恐れがある。しかしそれが事実だとしても、今の物言いを脅し以外の何とすれば良いのか。眉間に刻む皺が深くなるばかりだが、弁慶は肩を竦めて苦く笑う。
「己の成すべきことが成せれば、泰衡殿は己の命などどうでもいいとお考えなのでしょうが、あなたの命を惜しむ人間が、……いえ、今生きているあなたを案じる人がいることは、分かっていただきたいものですね」
「……それが弁慶殿と言うことはなかろう?」
皮肉に口元を歪ませると、おや、と弁慶は眉を跳ね上げた。
「僕も、昔から存じ上げている泰衡殿が病を患うことを喜んだりしませんよ。ただ、そうですね、僕が何より心を痛めるのは、僕らの神子があなたを思い、悲しむ姿を見ることでしょうか」
白龍の神子には、八葉と呼ばれる八人の守り手たる男が付き従う。伝説に言われたとおり、泰衡の妻たる人――白龍の神子にも八葉がいる。その一人が、弁慶だ。あるいは、高館に暮らす幾人かも同様であり、その中には昔馴染みの九郎の姿もあった。
弁慶が、僕らの神子、と称した妻が泰衡を案じて悲しむのならば、それこそが辛いことだと、主張されてしまったのだった。
息を吐き出す。確かに弁慶の言うとおり、泰衡を最も案じているのは、妻だろう。失念していたわけではないはずだが、言われて初めて気がつくと言うのも、またそれを指摘した人物が弁慶だと言うのも、何やら苦かった。
そして、ふと思い至る。妻の姿は、ここにない。弁慶は高館に住まう薬師だ、その男がいて、高館に行ったという妻がいないのも奇妙なことだ。一も二もなく飛んで帰ってきそうなものだと思っていたのだが。
「とにかく、今は休んでください。今のうちに体調を戻しておけば、後でさらにひどいことになって今以上に何もできなくなるより、増しだと思いますよ」
そのとおりだ、今は納得するしかなかった。今、無理を押してもまた数日後、あるいは明日にでも倒れてしまっては意味はない。諦めるよりないようだ。
大人しく、再び褥に横たわると、良かった、と弁慶はあからさまに大きな安堵の息をついた。少々厭味が含まれているような気がしてしまうのは、相手が弁慶と言う男ゆえだろうか。
「それでは、僕は失礼します」
一礼して出て行こうとする弁慶は、ふと思い出したように背中越しにこちらを見た。
「そういえば、望美さんですが」
妻の名を出され、そちらに目をやる。果たして、銀から泰衡のことを聞いて、どうしたのかと気掛かりになりつつあった。
「今夜は高館に泊まるそうです」
「泊まる?」
意外なことだった。泰衡の状態は知っただろうに、帰館しないとは、思いもしなかった。泰衡の知る彼女の行動とも思えなかった。
彼の心中が弁慶に見えたかは定かでないが、
「自分が一緒にいると、泰衡殿がゆっくり気持ちまで休めないだろうからと、そう言っていましたよ」
彼女の発言を付け加える。
確かに、妻の言うことも一理ある。何も妻が傍にいて落ち着かぬと言うわけではないのだが、いるだけで疲れることもある。それを思うと、誰を気遣うことなく、己の体のことだけ考えて眠ればいいのは、楽と言えばそうだった。
「望美さんに、何か言伝などあれば承りますよ」
しかし、最後の弁慶の言葉は、余計な気遣いだ。
「特にはない」
「分かりました。それじゃあ、僕はこれで」
静かに出て行った薬師の足音が遠ざかってから、泰衡はようやくまた一つ息をついた。
休めと言われると、どうすれば良いのか分からなかったが、とにかく今は、眠ればいいのだろうと考える。
つい今し方まで、随分長く眠っていたような気がするのだが――何しろ中天にあった陽がもう傾いている――、それでも、まだ足りなかったように、目を閉じてしまえば重く垂れてくる眠りの雲に、意識が覆われそうだ。
確かに、肉体は疲労している。それは蓄積されたもので、すぐに消し去ることはできないらしい。
(三日も眠っていられるものか)
しかし、今は休むことが先決。それが己のすべきことだと、言い聞かせた。