未来への報償①
夜の道を行く人 前編
長い、長い間、それこそ物心ついた頃からずっと、あの男の傍にいた気がしていた。
けれど、実際は一、二年だけ。中学生になってからだ。
眩しいほど美しく、心踊るほど楽しいだけの年月ではなかったけれど、過去を思い返せば、何時だって自然と口元が緩むのを自覚していた。
だから、もう一度と願った。
あの男と目指す夢を、もう一度と。
***
波の音が聞こえる。もうずっと長い間、聞いていなかった音は、誰もいない浜辺で密やかな音を響かせていた。
平古場は、サンダルで浜辺へ足を踏み込んだ。柔らかな砂浜に足が沈み込み、うっかりバランスを崩してしまいそうになった。何だかそんなことすら懐かしく、やっと沖縄に帰って来たのだという実感に、思わず笑みが零れた。
もう時刻は深夜に差し掛かろうとしている頃合いだった。夕方に沖縄の地へ降り立ち、そのまま家に直行し久しぶりに家族と再会を果たした。東京での出来事に花を咲かせながら食事をした後、居心地の良い自室のベットに倒れこむように寝転んだ。荷物を解かなければと思いつつも、寝心地の良いベットから背中が離れず、ダラダラと寛いでいる内に、いつの間にか眠りへと落ちてしまっていた。
目が覚めた時は、部屋の中が真っ暗で、曜日も時間の感覚も分からなくなっていた平古場は、焦りを覚えて携帯の液晶を確認した。液晶が示した時刻は、平古場が眠りについてから数時間しかたっていなかった。寝過ごしてしまったのかと肝を冷やしていた平古場は、枕に顔を埋めて安堵の溜め息を零した。寝返りを打って、携帯を確認するが、メールも電話の着信もなかった。それもそうだろう。それぞれが今は久しぶりに帰郷した家で、思い思いの時間を過ごしているはずなのだから。
もう一度眠ろうと目を閉じたが、睡魔は平古場の元へは訪れてくれなかった。いつもは、ベットに横になれば、幾らも時間が経たない内に眠ってしまえる体質なのに、この時は妙に目が冴えて眠ることが出来なかった。
体はまだ少しだるかったが、脳が完全に覚醒してしまっているので、眠れそうにないと感じた平古場は、月の光が入ってくる窓へと近づいた。窓を開けば、エアコンの効いている室内に、蒸し暑い風が流れ込んでくる。初めのうちはそのベタつく風に眉を寄せていたが、そこに混じる微かな潮の匂いを感じて、居ても立っても居られなくなった。
平古場はそっと家を抜け出して、よく訪れている海岸へと足を向けた。
夜の海は暗くて、暗闇に目が慣れたとはいえあまり視界が良いとは言えなかったが、波の音も、潮の匂いも、海の冷たさも全てが平古場に「おかえり」と言ってくれているようだった。
穏やかな海から寄せる波と波の重なり合う音、岸辺に打ちあがる水音、打ち上げられた波の泡が消える音、そのどれもが平古場の耳には懐かしく響いた。
都会は音の無い世界だと思った。いや、寧ろ煩過ぎて何の音が聞こえているのかすらよく分からなかった。それに比べて、沖縄は静かだけれど、耳を澄ませばあちこちから自然の音が聞こえてくる。とても優しい静けさだった。
平古場は、履いていたサンダルを脱ぎ捨てて波際へと近づいた。波の高さを確認して、踝が隠れる程度の深さまで海へと足を踏み入れた。波が引いては寄せてを繰り返すと、平古場の足先に砂が波の動きに合わせて纏わりついたり離れたりする。それをくすぐったく思いつつ、顔を上げて水平線を見つめた。
今夜は月が眩しいほど輝いていて、海に月明かりが作る光の道が出来ていた。濃藍色の海と瑠璃紺色の空は、その色の暗さからくる未知の恐怖よりも、月の光と相まって暖かさと美しさがそこには存在していた。
穏やかな気持ちで水平線に浮ぶ月を見つめる。この海のもっと先に、平古場達が戦った場所があることを思い出していた。
記憶を思い返せば胸を襲う悔しさや悲しみ、不甲斐なさといった感情が溢れて、心が苛立つ部分もあったが、全国の強さを目の当たりにしたからこそ、平古場が進みべき新たな道が見えた気がした。
平古場は、右手を持ち上げて月明かりにかざす。そして、月を掴むような動作をしてからゆっくりと胸の高さまで下ろした。右手の拳を開くが勿論その掌には何も無い。
平古場自身が全国大会で掴めなかったもの、足りなかったものが、きっとこの掌にあると思った。掴めなかった想いを今度こそ掴まえてやると心に決めて、平古場は掌を強く握りこんだ。
左手を右手首に添えて、もう一度水平線へと視線を移せば、月の光が眩しいほど目に飛び込んでくる。月明かりが作りだした海に浮ぶ光の道は、丁度水平線の部分が一番明るくなっている。その道の先に、新しい世界が広がっているのを感じて、平古場はもっともっと見てみたいと思った。
あの光の道の先を。
まだ見たことの無い世界へと想いを馳せれば、平古場の心は自然と高揚した。早くテニスがしたくて仕方なかった。ラケットを今すぐにでも持って、大飯匙倩の練習がしたいと思った。もう、あの時の試合のようにならない為にも。
明日、甲斐や知念を誘ってみようかと考えていると、波の音に混じって砂を踏む足音が聞こえてきた。こんな夜更けに誰だろうかと、振り返ればそこには全身黒ずくめの木手がいた。
「えーしろう!? ちゃーした」
「君こそ、こんな時間にここで何をしているのですか。補導されますよ?」
驚いて声をかければ、呆れた様な声が返ってくる。すぐ傍まで平古場に歩み寄った木手は、海に入ることはせず腕を組んで立ち止まり平古場を見つめてきた。呆れた様な、非難するような視線が平古場の全身へと突き刺さる。
「やーだって同じだろうがっ! ……それで、ぬーがここに来たんばぁよ」
「…………何だか眠れなくて。色々と考えていたら、海が見たくなったんです」
木手は平古場の問いにすぐに答えずに、視線を平古場から海へと移動させてから、ようやく呟くような声が聞こえた。木手のどこか気まずそうな様子に、平古場は心の中で首を傾げた。別に、不自然な理由でもなければ、筈がしがる程の理由でもない。「色々と考えていた」と言った言葉は多少気になるものではあったが。
「それなら、わんと同じやっし!」
平古場は、無邪気な笑顔を木手へと向けてから海へと向き直った。木手は、平古場のその言葉と笑顔と、海を見つめる横顔を静かに見守ってから、同じように海へと視線を移した。
二人は無言のまま、ただ海を見つめていた。耳に響く波の音だけが、二人の耳に聞こえる。
どのくらいの間、そうしていたのか分からないほどの時間が経過して、木手はふっと平古場が右手首を左手で握りこんでいることに気がついた。何故だろうかと考えて、全国大会の試合での出来事を思い出した。
「平古場クン。腕、もう大丈夫なんですか」
そう静かな声で聞けば、平古場は顔だけ木手へと振り返り、いつもの生意気そうな笑顔を見せた。
「ああ、さすがにもう平気やっし。永四郎が心配してくれるとは思わなかったさぁ」
平古場は、左手を離して、木手に見えるようにひらひらと手首を振る。茶化す様な言葉を選んでいるのは、この話題を早々に切り上げたいのだろう。けれど、木手は部長として言うべきことがあった。