未来への報償①
「まったく、あの程度で痛めるなんて、鍛え方が足りませんね」
「チッ。……くっそ、絶対に次はあんなことにはならねぇ」
笑顔から一転して、鋭い舌打ちと共に、眉間に皺を寄せて睨むような眼つきになる。その顔に、今度は木手が笑みを浮かべる番だった。
「もっと早く真面目に特訓してれば、負けたりしなかったと思いますが……」
わざとらしく溜め息交じりで言ってやれば、ますます平古場は顔を顰めた。
「うっせぇ! ギリギリで負けただけだろーが! 次は勝つ!!」
「ふっ……ギリギリでも、負けは負けでしょう」
「……っ」
悔しそうに睨みつける平古場の視線など、痛くも痒くもないといった涼しげな表情で木手は平古場を見返しす。無言のまま、お互いに視線を交差させていて、まるで先に視線を反らした方が負けだとでも思っているかのようだった。
その二人の静かな戦いは、木手が先に視線を反らせたことであっけなく終わった。予想外な展開に、平古場は面食らいつつも、睨むような瞳はそのままに不審げな表情で木手を見つめた。
海の先へと視線を固定したまま、木手は何かを迷うように唇を一度開いてから閉じた。そして、小さな溜め息を零した後、迷いを振り切るように平古場へと問いかけた。
「平古場クン。……あの時、もし、……もし、君が早乙女監督の指示に従っていたら、勝てたかもしれないとそう思ったことはありませんか」
その言葉に、平古場は睨んでいた瞳を大きく見開いた。正直、木手に言われるまでそんなことを考えたことがなかった。あの試合で、早乙女に従ってラフプレーをしていれば勝てたとは思わない。あの時の選択を、平古場は後悔した事などなかった。
最善の選択だと今でも思っているし、あの時早乙女に従ってプレーをすることの方が、平古場にとってみれば後悔するものだった。
――永四郎は、何が言いたいんだ?
そんな疑問が平古場の脳内を駆け巡る。木手の横顔を探るように見つめるが、感情が欠落した仮面が張り付いているかと思うほどの無表情しか確認できなかった。それでも、木手の些細な感情の変化を読み解きたくて、必死にその顔を見つめながら、返答する言葉を頭の中で考えていた。
「わんは、わんの意志を貫き通しただけだ。負けたのは……わんが弱かったからやっし。それだけだろ?」
そう言葉にして、平古場は改めて自身の力が足りなかったのだと痛感した。負けたなら強くなればいい、あの日味わった悔しさを糧に前に進めばいい、きっとそれだけのことだ。
「それに……、きっとあの時逆らわなかったら、それこそ後悔してたさぁ」
平古場は、河村と不二と戦った試合を思い出していた。久しぶりに、全力で戦わなくてはならない相手だと思った。そして、何よりも楽しくて仕方なかった。
テニスをあんなにも楽しいと思ったのは、一体いつ以来だろう。
テニスが心の底から好きだと思ったのは、何時振りだろう。
だからこそ、誰にも邪魔されることなく最後まで戦いたいと強く思った。悔いの残らない試合にしたかったからこそ、早乙女に逆らったのだ。勝てる勝算は十分あったし、邪魔された上に他人の力で勝てたとしても、嬉しくもなんともない。青学の二人が全力で挑んで来ている事が分かっていたから、こちらも全力で叩き潰してやりたかった。
ざわり、と心がざわめくのが分かった。
あの試合の最中、負けることなんて一度たりとも考えたことはなかった。得点が追いつかれた時ですら、楽しいと思ってしまった。手を傷めた時は、流石にまずいとは考えたが、最後はそれを忘れるほど試合に集中していた。
あんな試合をもう一度したい。全国にはあんなに強い奴らがいるのだから、きっと平古場が経験したことのない戦いがもっとあるはずだ。それを見てみたいと思った。
そんな思いが自然と笑みになって零れ落ちた。平古場は晴れやかな笑顔を浮かべて、木手へと笑いかけた。月の光の下で笑う平古場は、本当に心から楽しそうで、その清清しい笑みに木手は小さく溜め息を零した。
平古場は、あの試合からもう立ち直ったのだろう。元々、切り替えの早い性格だったし、勝つことにこだわるタイプである反面、終わったことに対しては執着しないタイプでもある。それに、平古場の晴れやかな笑みを見ていると、何か平古場自身に得るものがあったのだろうと思った。
そして、木手は自分自身はどうだったのかと考えて、また小さく溜め息を零した。
そんな木手の様子を見ていた平古場は、「溜め息が増えたな」と心の中で呟いた。何時頃からだろうかと考えて、沖縄に帰ることが決まった日からだったと思い出した。
随分と遠回りをしてしまったから、この沖縄の地へと無事に帰れることになり、安堵の気持ちが無意識に溜め息に表れているのだろうと思っていた。けれど、沖縄についてからも、木手の溜め息が無くなることはなかった。
普段、木手が溜め息をつく姿など殆ど見たことがなかった。平古場や甲斐達が悪ふざけをした時に、説教と共に呆れた様な溜め息を零されたことはあったが、悲痛そうな表情でいることは一度もなかった。
木手にそんな顔をさせる原因は一つしか考えられなかったが、平古場は特に口に出して指摘するつもりはなかった。木手へ言うべき慰めの言葉など平古場は持っていないからだ。
持っていないというよりも、二人の性格からして、慰め合うことも傷を舐めあうようなことをするタイプでは無かった。お互いにプライドが高いことは十分に知っていたので、そんなことを相手にすることも、ましてやされることなど、死んでも御免だった。
「やーは、わんがあの時逆らわなかったら勝てたと思うか?」
「……さぁね。でも、君は絶対に逆らうと思いましたよ」
「ははっ、永四郎は何でもお見通しだな! さっすがキャプテンやっし~!!」
「……君は、能天気でいいですね」
木手は、快活に笑う平古場に何かを言いたげに見つめていたけれど、軽く首を振って溜め息を零した。今度は呆れた様な溜め息だったが、それでもどこか疲れた様な感情を読み取ってしまった。
「切り替えが早いってあびらんけ!」
そう混ぜっ返しながらも、平古場はいい加減イラついてきていた。目の前で溜め息を何度も吐かれれば、誰だっていい気をはしないだろう。それが木手であれば尚更だった。
平古場自身は、あまり小さなことで悩むタイプではないし、気持ちの切り替えが早いので、鬱々と悩むことは殆ど無かった。慰めるつもりも話しを聞くつもりも微塵もなかったけれど、さすがに鬱陶しくなってきたので、木手から話くらい聞くべきかと思い直していた。
「で、ぬーよ?」
「何って……?」
突然の平古場からの問いかけに、木手は意味が分からないという顔で首を傾げた。
「だーかーら、俺の能天気さが羨ましいって思うくらい、永四郎は何に悩んでるのかってことさぁ!」
その言葉を聞いた木手は、意外そうな表情で平古場を見つめた後、すぐに眉間に皺を寄せて海の方へと視線を移してしまった。
「別に、悩んでなどいませんよ」
その素っ気無い言葉と態度に、平古場も眉間に皺を寄せて不満げな顔を作った。
――変な所で鋭くて、嫌になる。
言葉では出さずに木手は心の中で毒づいた。