リバース・エンド
第一章 罪は消えない 1
世界はかつてないほど混乱していた。
もうこの世界に未練がなかった。いや、正しく言葉を使うのであるなら、この世界には未練がない。俺自身には、未練は掃いて捨てるほどあった。もう、何年前であろう。自分の齢が34であるから、11年も前になる。いや、これもまた正しい言葉ではなかった。11年前に未練を抱いたわけではない。それよりも以前から、ずっと未練の重ね続けだ。後から悔いるから後悔と書く、本当に上手い言葉を先人は考えたものだ。未練は重ね積み、それ以上に後悔も積まれていく。
窓越しに空を見上げれば、澄み渡るような青い空。それなのに。地に視線を向ければ、そこは草木も生えない朽ち果てた物。ああ、これが幼子が救った世界なのか。これも違う。また言葉を選び間違えた。自分は幾つになっても変わらない。変われない。あの子のようにはなれない。
幼子は世界を救ったわけではない。世界に犠牲にされた。生贄にされ、殺された。
あの子は自分の意思で、人々を護りたいと言ったのだろうか。優しい子だった。残酷すぎるまでに優しい子だったから、本当に意思だったのかもしれないが、自分にはとてもそうは思えない。自分たちは、そう洗脳しただけではなかったのではないか。あの子は言っていたではないか、死ぬのは怖い、生きたいと。
7つだったあの子は死んだ。そして自分は生き延びている。もうすぐ35になる自分は、あの子の5倍も生きたことになる。
もし今ここで自分が死んだなら、人々はきっと短い生涯だったと囁くであろう。でもあの子は、その短い生涯の5分の1しか生きられなかった。生かしてもらえなかった。箱庭に閉じ込められ、ほんの僅かに見られた世界に残酷に殺され、それでもあの子は笑って逝った。
11年前、渓谷に現れたのは、あの子ではなかった。…ルークは死んだ、記憶という不明確なものしか残せず、たった一人で死んだ。あの子の代わりに現れたのは、あの子の被験者であり、現キムラスカ・ランバルディア王。王は言った。あの子の最期の言葉を。
あの子は最期に、「ありがとう」と言った。
心無い仕打ち、全てをあの子に押し付けて殺した自分たちを、あの子は許すのだ。優しすぎたあの子は、その優しさで自分たちに呪いをかける。自分たちは一生、あの子を思って生きていかねばならない。あの子を殺したのは、自分たちなのだと、忘れない。忘れてはならない。
そして幼子が愛した世界。護ろうとした世界は、もう救われない。心のどこかで、そう確信していた。
世界は争いに満ち、憎悪に満ち、何より病が充満している。理由が何かはわからないし、わかりたくもない。預言でもなんでも構わない。このまま世界は滅べばいいとも思う。でも同時に、それを護らなくてはいけない。それが、あの子を犠牲にした代償なのだ。
かつての自分を憎む。こんな醜いもののために、あんなにも美しかったあの子を犠牲にした、自分を、自分達を。
そんな日々を、悶々と送っていた。ある日自分は倒れた。病に犯されたのだと、理解するのにそう時間は要らなかった。
35歳になったとき、自分は床に伏せていた。もう自力で動くことすらままならない。でも、悲しいとも思わなかった。苦しくないといえば嘘になるが、あの子は、ルークは自分よりも苦しかったのだと思えば、弱音を吐くわけにはいかない。
人々が自分を見つめる。
「ガイラルディア伯爵様…」
誰かが呟き、泣いた。その涙を見て、自分は死ぬのだとわかった。怖いとは思わない。あの子の傍にいけるのだと思えれば、笑みさえ浮かべられる。でもそれだと、あの子が更に報われない。生きたいと望んだのに、殺されたあの子。そんなに簡単に、死を受け入れていいのだろうか。
そう思い、日々を生きた。生き続けた。そして自分はなぜか、闇の中にいた。上も下も、右も左も前も後ろもわからない。立っている間隔からして、辛うじて今踏みしめている足場が下だということだけがわかる。それも、確証したわけではないが。
自分が死んだのかどうかもわからない。そもそもここはどこなのか。そうしたら声が聞こえた。
『我が名はローレライ。お前の望みを叶えてやる。』
なんとも胡散臭い話だ。でも自分は知っている。この音譜集合体こそ、あの子の同位体であると。
『お前は今仮死状態にある。この世界で生きていくか、それとも…』
ローレライは一旦言葉を止めた。自分は何も言わない。
『過去に戻りやり直すか。』
ああ、まったく。何を言っているのだ、この意識集合体は。
『選ばせてやろう。この世を末を見守るか、過去に戻ってやりなおすか。選ぶがよい。聖なる焔の光が愛した者たちよ…』
それは強く望んだことだ。どれだけ過去を悔やんだか。もしもやり直せるならば…
「俺は…」
『さぁ、選ぶがよい。ガイラルディアよ…』
いつだって、突然にやってくるのだ。分岐点は。