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AQUA

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「そこをどけ、ムウ」

 抑揚のない乾いたアイオリアの声が、遠く空回りする。
 アイオリアは発するのが自分だとは思えないように聴こえた。思考は激しく混乱し、ムウに向けた拳をきつく握り締める。
 指先の感覚は既に消失し、身体は満ちる怒りに支配され、小刻みに震えてさえもいた。扉の奥では断続的に破壊音が轟いている。

「――――何故だ?何故、扉の前に立つ?」

 今や凶器の拳はムウに狙いを定めていた。

「この扉を壊して中に入ってはいけない、アイオリア。私は……この扉前から一歩も退きません」
「ムウ……」

 ムウは真っ直ぐにアイオリアを見定めていた。人形のような硝子玉の瞳ではなく、迷いのない、透き通るような瞳。内面の葛藤を払拭させたかのような強い意志と、誇り高い光を放つ瞳だった。
 共に黄金聖闘士として生き、そして13年もの間、沈黙を守り続けた男。
 アイオリアとはまた違う辛酸を舐め続けながらも、強かに辛抱強くアテナの光を聖域に導いたともいえる男。
 まさかとは思うが、ムウはシャカに報復するつもりでこの場を邪魔しているのだろうかと、よからぬ考えがアイオリアの頭を過ぎった。

「ムウ、貴様―――」
「シャカが望んでいるのです。私は彼の……最後の一瞬……命尽き果てるその瞬間を静かに見届けることを誓った。その瞬間をあなたにも……誰にも、決して、邪魔などさせはしない!」

 ムウの告白にアイオリアは耳を疑った。

「――――お前は……それほど迄にあいつを?」

 目頭をジンと熱くしながら、アイオリアは立っているのも億劫に感じた。

「わかっているのか?ムウ。今、お前がしようとしていることが、一体どういうことなのか」

 涙が一筋頬を伝って零れ落ちた。張り裂けんばかりに胸を痛めながら、まっすぐにムウを睨みつける。

(――――これは、傲慢だ。いや、卑怯だ。シャカも、ムウも、ふたりとも)

 アイオリアの全身を冷たい刃が貫くような痛みが駆け抜けた。
 兄を喪失した時の痛みをも凌ぐ『激痛』に身を震わせながら、奥歯を噛み締める。

「十分すぎるほど承知しています。アイオリア。ですが―――それがシャカの願いなのであれば。あなたには許せぬことでしょう。あなたの思いのままにあなたは迷う事無く、私に拳を向ければいい。だが、私は決してこの扉の前からは退かない」

 ムウの静かな声がアイオリアの耳元を通り過ぎていった。

 そして―――。

 壮絶な小宇宙が扉の奥で弾けとんだ。尊大で傲慢、かつ高貴なる魂が儚く消えていくのを感じ取った。打ちひしがれ、荒れ狂う心のままに拳を壁に打ち付けたその時、扉を震える指先でなぞるムウの語りかけるような小さな心の囁きがアイオリアの心に届いた。


 ―――シャカ、貴方は今、どんな夢を見ているのですか?
 今はただ、その夢が安らかなものであることを願ってやみません。
 きみは最後まで自由なる心のままに泳ぐことができたのでしょうか。


 この過酷なる運命。
 一体、どちらに背負わされたものなのでしょう。
 あなたなのか、私なのか。

 それとも、背徳の愛に囚われた二人への重い十字架なのでしょうか。
 ならば、私はあなたのために。
 たとえ鋭い棘に覆われた十字架であろうとも、
 皮膚を破り、血を流そうとも、
 背負い続けましょう。

 きみを想い、痛む心でさえも、私は喜びとなるのですから。


「ムウ……」

 それがムウの愛の貫き方だとすれば。シャカはきっと、幸福であったのだろうとアイオリアは思った。


 静かに開かれた、沙羅双樹の園の扉。
 舞い狂う沙羅双樹の花びら。

 まるで、シャカの心が、自由に泳いでいるかのようにアイオリアの目に映った。きっと、ムウの目にも同じく映っていることだろう。
 なぜならムウが一瞬だけ垣間見せた、ひどく愛しげで優しく見つめた瞳が、そう物語っていたから。




Fin.
作品名:AQUA 作家名:千珠