AQUA
AQUA ―Bubble―
「……ムウ?」
「あ……、ここ……は?」
まだ混乱した思考を整理できずに動揺を隠せないまま、目を瞠る。全身を汗でびっしょりと濡らし、鼓動も早鐘のように打ち響いていた。
ようやく混乱が終息したとき、目の前にいるのは誰でもない、シャカであるのだということをムウは認識したのだった。
「ひどい汗だ。随分うなされていた。大丈夫かね?水を持ってこよう」
離れようとするシャカの腕を引き寄せ、抱き締める。この髪の臭いも肌の温もりも覚えがある。穏やかな口調は失ってしまったと思っていたシャカのもの。
(―――そうか。全ては悪夢だったのかもしれない)
「よかった――」
けれども、あの生々しい映像がムウの脳裏に焼きついて離れないのだ。
(―――本当に夢だったのだろうか?いや、もしかしたら、この瞬間が夢なのかもしれない。もしも、そうであるならば、永遠に夢から覚めないで欲しい)
「ムウ?どうしたのだ、一体。まるで……」
シャカは自ら口にしようとした言葉に驚き、戸惑っているようだった。彼の中で何かは解らぬが、不安が急速に闇を広げつつあるようだった。
「ああ。そうか……わたしは……」
「シャカ?」
呟いたシャカはその闇を掻き消すように、軽く頭を振って、ムウの顔を覗きこんだ。透き通るような水色の優しげな瞳がムウを捉える。シャカはそろりと白い腕を伸ばして、少し寝癖のついたムウの髪に触れた。
シャカとは若干、質の違う長く解けた髪をなでると、シャカは頬をほころばせる。それにつられたようにムウの頬の筋肉が緩んだ。
ほっとした表情を浮かべたシャカはやがて神妙な顔つきになり、髪に触れていた指を頬に滑らせ、そっと撫でる。ムウの形のよい口唇を確かめるように、細い指先がなぞっていった。ひんやりとした冷たい指の感触が伝わってくる。
―――トクン。
小さく胸が弾んだ。シャカの指が口唇に触れたまま時が止まる。
海のような蒼い瞳が真っ直ぐムウを見つめた。揺らぎなく、強く射るような眼差し。
ムウの中で、戸惑いと焦りにも似た感覚が芽生える。シャカの意志が、心が見えない。何を想い、何を考えているのか?
―――トクン。
また一つ音が鳴る。
綺麗なはずの微笑が、なぜか歪んで見えた。そっと、ムウの口唇にシャカの冷たい口唇が重ねられた。
―――時が……止まる。
脈打つ鼓動が全身を支配しかけた時、そっと口唇を離したシャカが、静かに言葉を紡いだ
。
「ありがとう。ムウ、きみに出会えてよかった」
綺麗な澄んだ瞳から、真珠のような涙が一滴、流れ落ちた。
私の名を愛しげに呼びながら―――。
「シャカ?」
「もう、行かなくては……」
「行くって、何処へ行くのです!?」
離れようとする腕を引き寄せようと掴む。が、するりと虚しく空を彷徨う。
「!?」
「還るべき場所へ……」
静かに流れる涙は光となり、消えていく。
そして、シャカ自身の姿も。
「シャカ!行ってはいけない!!貴方が……貴方の還るべき場所は……ここではないのですか?私ではないのですか!?」
差し伸べた手が、悲しみに打ち震える。
シャカの姿はどんなに目を見開いても映し出すことはないまま。目の前にいたはずの……触れたはずのシャカの姿は何処かへと消えてしまった。
ただ、目に映るのは色のない真っ白な世界へと変化していく。
「ああ―――」
白い世界の中で独り残されながら、力なく膝をつき、空をぼんやりと眺めた。遠く広がる鉛色の空から、ひらひらと白い沙羅双樹の花びらが舞い降りては消えていく。
―――この夢はすぐ先にある未来。
もうすぐ、約束の時が訪れるのだろう。
私は耐えなければならない。
シャカが最後の一瞬まで泳ぐ、その姿を見届けるために。