ライフゴーズオン
24時
何の変哲もない夜更け、満艦飾家では家族四人と一匹がそれぞれの寝息といびきでクインテットを奏でていた。寝付けずにいた纏流子は一度トイレに立ち、それから台所に立ってシンクの蛇口から水質のあまり良くない水道水をコップ一杯分取り飲み干した。コップを軽く洗おうと再び蛇口に手を伸ばしたところで窓に近づく光に気が付いた。ややあって小石がこつりと一番近い窓に当たる。
パジャマ姿のまま外に出た流子を出迎えたのは、反制服レジスタンス・ヌーディストビーチの主力メンバー美木杉愛九郎と黄長瀬紡。
「やあ、こんな夜更けに失敬、流子君。少々君に話があってね。悪いがちょっと付き合ってくれないか」
「あ? いいのかよ先公が自分のクラスの学生夜中に連れ出すなんてさ」
「僕はもともと偽教師だからね。書類上のこともけりはつけてある」
「そうかよ」
夜の寒さにひと震えした流子は、一旦家に入ろうとしてから首だけを二人に向け告げた。
「着替えてくるから待ってろ」
満艦飾家の人々を起こさないように静かにシャツにジーンズ、スカジャンに着替えた流子はそっと家を出た。
満艦飾宅から離れ、本能町と東京湾岸を結ぶ橋の近くまで来たところで美木杉と黄長瀬は止まって下車した。自分のバイクで彼らを追いかけていた流子も追いついてバイクのスタンドをおろした。
「で? 昼間じゃ言えねえ用事でもあんのかよエロ先公」
「だから僕はもう教師じゃないんだけどな」
「エロは否定しないのか」
指摘した黄長瀬に目をやり無言で肩をすくめた美木杉は流子に向き直った。
「大人がやるべき後始末のために僕らはこの町を離れる。その前に君に託すものがある」
「まだるっこしいことは嫌いなんだよ。寒いことだしとっとと済ませとこうぜ」
眠れなかったのも手伝ってかややつっけんどんな物言いの流子に苦笑しつつ、美木杉は話を続けた。
「纏博士から生前、自分に何かあったら僕にすべてを預けると言われていてね。ヌーディストビーチの指揮だけじゃなくて君が成人するまでの後見人としても、もうしばらくは君と縁がある」
「後見人? なんだそれ。私が成人するまでは養ってくれるってか」
「うーん、似たようなものだが少し違うね」
美木杉は車の後部座席から書類入れを持ってきて中から封筒を取り出した。
「通帳一式と印鑑、それに後見人としての僕の連絡先だ。通帳は君名義で作ってあるから持っておきたまえ。纏博士が残した特許の数々、その特許料が毎月この口座に振り込まれる手はずになっている。高校どころか大学院まで余裕で通えるくらいの金額になるはずだ」
「大学院? そこまでお勉強が好きじゃないんだよ。私の周りにゃそんな奴いなかったからね。まあせいぜい使わせてもらうよ」
美木杉から手渡された封筒をぞんざいな手つきで受け取ると流子はジーンズのポケットにねじ込んだ。
「で? これからどうすんだい、あんたらはよ」
「僕は一度大阪に行くよ。ヌーディストビーチの組織解体と、その他諸々事後処理もしないといけないしね」
「俺はそれについてって、そのあとは復学だ」
「復学ぅ? 赤モヒカンの筋肉ダルマが学生だとか、冗談言うなってオッサン」
けらけら笑う流子に黄長瀬は少々むっとした表情を浮かべた。
「二つ、いいことを教えてやろう」
深々と吸い込んだ紫煙を吐いて黄長瀬が続けた。
「一つ、俺は休学しているがこれでも大学院生だ。二つ、二十代前半はまだオッサンじゃない」
ふん、と鼻を鳴らした黄長瀬に向かって、一瞬間を置いた流子がおかしさに耐えきれない様子で吹き出し、直後に大笑いした。
「何がおかしい」
「だってよぉ、もっともらしそうに勿体ぶって何言うかと思ったら二十代前半はオッサンじゃないって、女子校生にとっちゃ二十歳過ぎりゃあオッサンだよ」
尚も笑い続ける流子にショックを受けていたのは、黄長瀬よりも美木杉だった。
「何を言うんだい流子君、二十歳過ぎりゃあオッサンだなんて、そうしたら僕はどうなるんだい?」
「そっちこそ何言ってやがる、教師のふりしてた時なんかオッサン通り越してジジイだったじゃねえか」
「それは世を忍ぶ仮の姿というものだよ流子君」
美木杉は乱れてもいない前髪をかき上げ、前後に足を開き上体を捻ったポーズをとった。街灯が逆光となって美木杉を照らし、雑誌の一ページと言われてもおかしくないほど絵になる構図ではあったが、生憎彼に見惚れるものはその場には存在しなかった。
「ああもうどうでもいいや、とりあえず確かなのは、あんたらとはひとまずおさらばだってことだ」
大笑いから脱した流子は、くいっと唇の片端だけを上げた。
「元気でな」
言葉と共に差し出された流子の右手を先に握ったのは美木杉だった。
「素敵なレディーになりたまえ、流子君。そうしたら後見人としてではなく一人の男として、君を迎えに行くかもしれないよ」
気障な口調と誘惑するような視線を投げ、握った流子の手に軽く口づけた美木杉に胸焼けしそうな表情を浮かべた流子は手を離すと自分のジーンズで手の甲をぬぐい、次に黄長瀬と握手した。
「最後に二つ、いいことを教えてやろう。一つ、学問は苦痛ではない。これからの自分自身を広げる手助けになるし、一生の友になってくれることだってある。二つ、お前はいい女だ。つまらん男に引っかかるなよ」
真顔で言ってのけた黄長瀬に流子はあっけに取られてその場で固まった。
「おいおい紡、つまらん男ってまさか僕のことかい?」
「そういう質問をわざわざ聞いてくること自体がつまらんと思うがな」
「やれやれ、若いモンは辛口だねえ」
肩をすくめた美木杉と我関せずの黄長瀬は自分の車とオートバイにそれぞれ乗り込んだ。車のパワーウィンドウが開いて美木杉が流子を見上げた。
「それじゃ流子君、元気で」
黄長瀬は黙って左手を上げるとオートバイのエンジンをふかした。次いで美木杉も車のキーを回し、重いエンジン音の二重奏が道路に響いた。小さくなっていく二台の影を見送った流子は振り返り、自分のバイクにまたがって
「じゃあな」
ともう一度呟いてから走り出した。