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手を動かすと一瞬抵抗を感じる、が、それすらも心地良い。
全身に触れている、水の感触。
青い海。
内陸に砂漠を有するこの国の、海岸沿いの都市のひとつ。
熱風が吹くようになり、遊牧民族の中にはそれまで生活していた砂漠を離れ家族をひきつれてラクダで海岸までやってきて木造帆船の船乗りとなる者もいる。そんな、夏が始まろうとしているころ。
この街の商家の娘であるハルカは海の中にいた。
初等教育を受ける学校の一日の授業が終わると、海へと直行し、砂浜に着ている物を脱ぎ捨て、その下に着ていた白い上衣と下衣という格好になり、水の中に入っていったのである。
暑いから、だけではなく、ハルカは純粋に水が好きだ。
こうして水の中にいると、いつまでもこのままでいたい気分になる。
泳ぐのもやめて、眼をつむり、深く深く沈んでいきたくなる。
ふと。
まわりの水の動きが、だれかが泳いでいるのを、それが近づいてくるのを、ハルカに伝えた。
一緒に海へ遊びに来たマコトかナギサだろうか?
ハルカは眼を開ける。
飛び込んでくる、光景。
少年が泳いでいる。白い下衣だけという格好だ。
ハルカと同い年ぐらいに見える。
知らない顔。
こちらに向かって泳いでくる。
そのスピードは、速い。
水をかく腕は子供のものだが、引き締まっていて力強い。よくきたえられている。腕だけではない、早く泳ぐのに適した、いい身体つきをしている。
少年はぐんぐん迫ってくる。その顔が、ニヤッと笑ったように見えた。
なに、海の中、漂ってるんだよ。
泳げよ。
そう言われた気がした。
挑発されたように感じた。
冷めていて、子供らしくない。それが、まわりの大人たちによるハルカに対する感想だ。
そう評されることをハルカは嫌だとは思わない。
熱くなりたくなんかない。いつも水のようでありたい。
だから、挑発には乗らない。
ーーーーーいつもなら。
なぜか、今、胸が熱くなった。
それでも、いつもなら、その熱を下げようとするのに、なぜか、今、そうしようとはしなかった。
ハルカの顔つきが鋭くなる。
手を動かす。水をかく。足を動かす。水を蹴る。
泳ぎだした。
ハルちゃんの泳ぎは速くて綺麗だと、ナギサは言う。ハルは水に愛されてるみたいだと、マコトは言う。
別に自分の泳ぎに自信があって他人に負けたくないわけじゃない。勝ち負けなんて、ハルカにとってはどうでもいいことだ。
でも、どうしてだろう。今、自分に向かって泳いでくる少年に、反撥した。
ハルカは泳ぐ。
少年より速く泳げることを望んで、泳ぐ。
だが。
身体に触れている波がハルカに少年が追いついてきていることを伝えた。
妙に、熱い波紋。
それが肌に押し寄せてくる。
ゾクッとした。
だれかと泳いでいて、こんな感覚を味わったのは初めてだ。
そして、横に並ばれる。
少年の姿が視野に入ってきて、ぎょっとした。
追いつかれて、それから、追い抜かれるのだろうと思っていた。けれども、少年は追い抜こうとはしていない。
少年はその手をハルカに向かって伸ばしている。
自分をつかまえようとしている。
そう感じた。
嫌だ。ハルカは思った。つかまえられたくない。自分は自由でありたい。
少年が伸ばしてくる手を避けるために、ハルカは進む方向を変えた。結果、ハルカをつかまえようとした少年の手は水をつかんだ。
ハルカは逃げる。さっきまでよりも速く泳ぐ。
それでも、波は少年が迫ってきているのを伝えてくる。
水はいつものように自分を受け入れてくれているのに。
少年のほうが、自分よりも水に受け入れられているということなのだろうか?
そう思うと、イラ立ちを感じた。
やがて、少年が横まで進んできた。
そのたくましい腕が、また、ハルカのほうに伸ばされる。
今度こそ、つかまえられる。
そう思った。
でも。
ハッと気づいた。
もう足が海底につく。
ハルカは自分のほうに伸ばされてくる手を払いのけ、海底に足をつけた。
水しぶきをあげながら、肩から上を水から出す。
すると、少年も同じように肩から上を水から出した。飛び散った水しぶきがキラキラ光った。
少年はハルカと向かい合って立っている。
太陽に照らし出された明るい世界の中で見る少年の顔は、まだ子供ながらも、美しいといっていいほど整っている。肌が白い。ナギサのように北方の民族の血が入っているのかもしれない。その髪が、日差しを浴びて燃えるように赤く輝いている。
少年はハルカに追いつくために泳いだせいか、荒い息をしている。それは、少年から逃げるために全速力で泳いだハルカも同じだ。短めの黒髪からポタポタ水滴が落ちる。
ふいに、少年の表情が変わった。
口元がほころぶ。
その口が開かれる。
「おまえ、速いな!」
眼をきらめかせ、笑った。
屈託ない笑顔。
その顔を、ハルカは眼を丸くして眺める。
少年はふたたび口を開く。
「俺はリン。おまえは?」
名乗って、問いかけてきた。
問われているのは名前だろう。
しかし、ハルカは顔から驚きを消して、無表情になり、口を閉じたままでいる。
問われたのに従うように名を答えたくない。少年に対する反撥が胸にあった。
「ハル!」
マコトの声がした。
年齢のわりには背が高くてがっしりとした身体の少年が近づいてくる。身体は大きいが、やわらかな雰囲気を漂わせている。
そのマコトのそばには小柄で、金髪、白い肌の少年がいる。ハルカやマコトよりひとつ年下のナギサだ。
ナギサは近くまでくると、クリクリとした眼をリンに向けた。
「君、だれ?」
ストレートな質問だ。ナギサらしい。遠慮というものがないのだ。それでいて、嫌な印象を与えない。
「リン」
笑顔のままでリンは返事した。
「この街に越してきた。おまえらは?」
「僕はナギサ。僕の住んでいる家はここからちょっと離れてるけど、よく遊びに来てるんだ。このふたりはこの近所に住んでるんだけどね」
ナギサはハルカとマコトを指さした。
「ハルちゃんと、マコちゃんだよ」
「マコトっていうんだ」
マコトがやわらかな声でナギサの紹介を少し修正した。
それを聞いたあと、リンは眼をハルカに向けた。
「で、おまえは、ハル、なんだな?」
正確には、ハルカ、である。
しかし、ハルカは訂正せずに、無表情のまま、無言でうなずいた。
だが、世話好きなマコトは訂正しようとしたらしく口を開きかけた。
けれども。
「リン様ー!」
浜辺から声が聞こえた。
そちらのほうを見ると、見知らぬ大人の男が困ったような顔をして立っていた。その男の近くにはリンが脱ぎ捨てたらしい服が落ちている。
リンは応えるように右手を頭の高さまで挙げ、それから、おろした。知り合いに対して手を振るのではない、妙に威厳のある動作だった。
リンはハルカたちのほうを見た。
子供らしい屈託のない笑顔を向ける。
「呼ばれてるから、俺は行く」
そう明るい声で告げ、リンはさらに続ける。
「おまえ達、明日も、このぐらいの時間にここに泳ぎに来るのか?」
「うん、学校が終わってからだから、そうなるね」
そう答えたナギサと、ハルカとマコトのふたりが通っている学校は違う。
作品名:♯ pre 作家名:hujio