ツタエタイ/ツタエラレナイ
このまま心の中に仕舞っておくのは、きっといつか限界が来るだろう。でも、まだ今はこのままでも良いか。荒北が自分に答えて、自分だけのものになってくれるならいい。でも、気持ちを伝えて受け入れて貰えなかったら。まだこんなふざけ合う関係を壊すのは惜しすぎる。
「静かにせんかっ!」
土間声が響く。さっき風呂場でも怒鳴られた老爺が、上がり口で仁王立ちになって睨みつけていた。
俺たちは再び謝ると、「全く、最近の若い者は…」なんてぶつぶつ文句を漏らすのを聞き流し、そそくさと着替えて立ち寄り湯を飛び出した。
「寒みー! ビショビショだっつの」
「着替え持ってなかったな」
折角綺麗に汗を流して暖まった体に、汗みずくになって冷えたウェアを着るのはさすがに気持ちが悪い。
「心配するな、俺たちもだ」
前髪を捻りながら、東堂が言うのに福富が同意するように頷く。
「次は用意して来よう」
デートの誘いでもするみたいに胸がドキドキする。ちゃんと普通の顔が出来ているだろうか? 荒北がしょーがねーな、と笑ったので、一気に心が軽くなる。
「各自冷やさないように急いで帰れ」
きしりとペダルが軋んで、細いフレームの自転車が走り出す。冷えたウェアで風を切るのはさすがにキツイ。福富の言葉がなくても、とにかく早く帰ってもう一度熱い風呂に入りたい。
四つのライトがすっかり日の暮れた箱根の道を揺れながら照らす。その脇を車が追い抜いていく。少し車が途切れたところで、荒北のロードレーサーがするりと下がって来て、新開の隣に並んだ。
「靖友?」
「…しょだから」
ぼそりと聞きとれない小声が耳を掠って後ろに流れた。思わず靖友の顔をまじまじと見てしまう。後ろから来た車が、車通りのなかった対向車線へ一旦出て、広がった新開たちを追い抜いていった。ヘッドライトが通り過ぎざまに一瞬荒北の顔を照らす。ふてくされたようで、顔が赤い。
「だから! 別に居なくなったりしねーから。練習に集中しろっつたんだよ」
こんなこと言わすな、と背中をばちんと叩かれた。湿ったウェアを叩かれるとものすごく痛い。それでもなんだか元気が出た。
「テメーが変だと、こっちも調子狂うんだよ!」
荒北が真っ赤になって照れているのを見れたせいもあるかも知れない。
「ああ、これからも頼む」
「っせ」
今はまだこのままでいい。それよりも乱暴な物言いをしながらも、傍に居てくれると言ってくれた気持ちの方が嬉しかった。
闇に沈む箱根の山に向けて、新開はペダルを漕ぐ足に力を入れた。
――end
作品名:ツタエタイ/ツタエラレナイ 作家名:せんり