ツタエタイ/ツタエラレナイ
ばしゃん、と顔に湯が掛かる。顔を拭って視線をあげると、湯船の反対に座っていた老人がじろりと睨んできた。騒ぐ自分たちを叱責するはずの視線すら、白状してしまえと責められているような気になる。
言えるわけがない。
「ちっ」
先出るわ、と荒北が舌打ちをして湯船を出ていった。
やっちまった。
背中を見送り、小さく溜め息を吐いて湯船に沈む。凹んでるのに、自分の一部は気持ちを裏切ってる。気付かれなくて本当に良かったと心底思う。
だが一方で荒北に申し訳ない気持ちにもなる。大事なチームメイトに隠し事なんてするもんじゃない。いや、だからってこんなことをはっきり言えるものか。
それに、今の自分はこんな気持ちにうつつを抜かしている場合じゃない。次のインターハイには何としても走れるようにならなければならないのだ。ただ自転車に乗れると言うことじゃない。並みいるライバルを下して、スプリンターとして誰よりも早く走らなければならない。
それが自分に求められていることだ。
中学から一緒に走っていた福富寿一が目指すチームに、自分が当然のように含まれていることを知って嬉しかった。自分がまだ期待されてると判って、走れなくなった自分が悔しかった。だからこそ、自分で抱え込んでいた悩みを打ち明けたのだ。
だけれど。
悪態も吐かずに静かに去っていく荒北の背中を見るのが苦しかった。
むしろ、うるさいくらい口汚い方が、普段通りの荒北なのだ。
ともかく謝った方が良いだろう。許してはくれるだろうが、何を考えていたのかと追求されるかもしれない。さて、そうなったらなんと言ったものだろう。
そんなことを考えていたら、いつまでも湯船に浸かっている気にもならなくて、後を追うように新開も湯から出た。
ホカホカに暖まった体で少し涼しい脱衣所に出る。腰にタオルを一枚巻いたままの姿で、荒北がコーヒー牛乳の入った冷蔵庫の前に居た。すらりとした体は一見ひょろひょろとしたように細く見えるが、その実はしなやかな筋肉が覆っている。スプリンターを目指す新開ほど筋肉が目立たないだけだ。そんな彼の体が輝いて見えてるような気がする。気のせいと片付けるには無理があるが、力付くでもねじ伏せて平静を装わなければ。
「靖友、奢るよ」
むすっとした顔の荒北に瓶を手渡す。
「さっきは…」
ごめん、と謝ろうとした所を、ぺりぺりとコーヒー牛乳の封を剥がした荒北に睨みつけられて尻すぼみに声が小さくなる。
「オメー、何考えてんだ?」
ぐびりと一口コーヒー牛乳を飲んだ荒北の言葉に、息を呑んだ拍子にひくりと喉が鳴った。え? と聞き返しながら新開自身も自分のコーヒー牛乳の封を開ける。だが手が震えてるし、声も裏返っていて、誤魔化すどころじゃない。不審すぎる。
だが、このタイミングでは言えない。言えるわけがない。
「練習にイマイチ集中できてねークセに、やたら走りたがるしよ。のワリには別にスプリント練習ってワケでもねー。お前なんか言いてーことあんだろ?」
何と答えていいのか判らない。間を保たせるためだけに、瓶を口元に当てる。
「福ちゃんにも言えねーことか?」
その言葉にしばし逡巡してまあな、と答える。福富にこんなことを知られるワケにはいかない。もの凄く腹を立てたような溜め息を吐いて、がりがりと荒北が頭を掻いた。
「うっぜ。グダグダ頭で考えてんじゃねーよ」
荒北がごす、と脇腹を蹴った。飲みかけていたコーヒー牛乳を吹き出す。
「な…」
「頭ン中でこねくり回してて、なんかいーことあんのかよ。巧い答えでも出てくんのか? 違げーだろ。ンなんで練習したって意味ねぇだろーが」
と言われても。言って良いことではないから、言わずにいるのだ。どうしようもない。
「溜め込んでねーで吐き出せよ。イライラするからぁ!」
吐き出せって…。言えたらこんなに悩んでない。辛うじて出た言葉は、どう聞いても誤魔化すようないやぁ、なんて歯切れの悪い呟きだった。
「いやぁ、じゃねーよ。俺が聞いてやるっつってんだよ! 言えよ!」
「靖友…」
顎を吹いたコーヒー牛乳が滴り落ちる。それを拭うのも忘れて、睨みつけてくる荒北から視線が離せなかった。
お前に言っても良いのか? いやいやいや。そもそも言えるなら、こんなことになっていないワケで…。でも…。
「なんだよ。マジでオールラウンダー目指してーとか、右から抜く練習新しいこと試してーとか。レース出てーとか」
……うん。ですよね。当然そっちだよね。
荒北の言葉に肩の力ががっくり抜ける。真面目だ。荒北らしいと言っても良い。
その真っ直ぐさが新開には時々辛い。
「ずっと一緒にいてくれ」
ぽろっと言葉が口から滑り出た。しまったと思ったがもう遅い。さっきからこんなことの繰り返しだ。それに、男子高校生が友人に対して言うことじゃないな。
「はァ?」
言葉の意味が判らない、と言いたげな荒北の顔も好きだ。でも、ますます怪訝な顔をしている。ついでに機嫌も悪そうだ。うん、これはマズイ。なんとか誤魔化さなければ。ああ、そうだ。
「ずっと一緒に走ってたい」
……。言葉は違っても、意味はさっきと余り変わらないような気がする。荒北の目つきが更に険しくなる。誤魔化せてないですよね、そうですよね。
だが焦れば焦るほど言葉が出てこない。その内なんだか自分でもよく判らなくなってきた。ああ、どうしよう? どう収拾つけたらいいんだ?
「心配するな、隼人。俺たちハコガクはずっと一緒だ」
慌てる新開を余所に、ぴしゃーん、と風呂場の引き戸を勢いよく開けて出てきたのは、東堂だった。いつも通りはっはっは、なんてきらりと光る笑顔だ。
ん?
え? なんで尽八がここに居るの?
「うっぜ。一緒っつったって、どーせ進路分かれるだろーが」
「物理的な距離に意味などない。俺たちには絆があるからな。うむ、お前を仲間はずれにしたりなんかしないから、安心しろ。荒北」
「っせ」
なんだ素直になれ、なんて勝手なことを言われて、荒北が物凄くイヤそうな顔をする。
「なんだよ、福ちゃんまで来てたのかよ」
風呂場から福富寿一までが出てくる。どうなってるんだ?
「お前らが走るというから、途中で合流した」
「寿一、なんで知って…?」
特に隠したわけではないが、何となく荒北と二人だけだと思っていた。
「あんなデッケェ声で言ってりゃ、誰だって知ってるだろ。それに合流したんじゃなくて、後つけてたんだろーが。居るんなら声掛けろよ、ムズ痒いからァ!」
淡々と喋る福富に文句を言いながら、荒北が皆に押しつけるようにコーヒー牛乳を配る。
「福も当然同じ思いだ。そう言うわけで、お前の望みは叶うぞ。安心しろ」
牛乳のふたが上手く開けられずにめろめろにめくりながら、東堂が自信たっぷりに宣言してくれる。
「ハ、うっぜ」
「嬉しいなら素直に喜べ、荒北」
喜んでねーよ、なんて言い返すが、顔がほんの少しだけ照れている。判らない人には判らない差だろう。だけれどきっとそれは新開だけじゃなくて、福富も東堂も知ってる。荒北と東堂の言い合いを見ている内に、荒北に劣情を抱いて、ワケが判らなくなるほど頭に上っていた血が下がってきた。
作品名:ツタエタイ/ツタエラレナイ 作家名:せんり