サクラサク
闇の中を、風を切るように走り抜けた。
真冬の冷たい風が、熱く火照った頬を弄っていく。
荒い呼吸を繰り返す。肺も、喉も、熱い息に焼かれそうだ。
隣を見れば、三郎も息を弾ませて駆けていた。
その目がちらりと背後の気配を探ると、両手を広げてやれやれと首を振った。
おどけた仕草。けれど、瞳の中には焦燥と絶望が見えた。
ただ、走る。どこまでも、行けるところまで。
僕らに出来ることは、もうそれぐらいしか残されていなかった。
「…なんてこったい…」
露に濡れた草を踏みしめて足を止めた三郎が、思わず、といった風に呟いた。
その視線の先を追いかけて、僕は言葉を失った。
闇の中、ふいに途切れた道の先は、真の闇。
ふいごのように激しく鳴っている呼吸音の間から耳を澄ませば、微かに水音が聴こえた。
「…崖…」
ゆっくりと崖際へと近づく。慎重に下を覗き込んだが、見えるのはやはりただ闇ばかり。
ごうごうと水流の渦巻く音だけが異様に近く感じられた。
「さぶろ…」
どうしようか、そう尋ねようとした瞬間、足元に短弓の矢が突き立った。
「雷蔵!」
それを見た三郎が慌てて駆け寄ってくる。来るな、と言う暇も無かった。
その間にも、弓矢が四方から襲い掛かる。
「囲まれたな」
三郎が呟いた。
「どうする?」
「どうするって…」
「四方を敵に囲まれ、背後は崖。もはや武器もなく体力も限界。まさに絶対絶命、だ」
「でも、捕まるわけにはいかない」
僕は懐に忍ばせた巻物を硬く握り締めた。奪われるわけにはいかない。奪われるくらいなら、いっそ…
「じゃあ、仕方ないな」
三郎は小さくため息をついた。
思わずその顔を振り向くと、こちらを見て微笑んでいる目と目が合う。
「三郎…」
なんだか少し、ほっとした。
どちらからか、手を硬く握り合う。
じりじりと、敵が攻め寄せてくる気配に圧されるように、少しずつ後退していく。
しかし、踵が宙を踏んだ。
「ねえ、三郎」
「なんだい、雷蔵」
「最後まで、君といっしょにいられて良かったよ」
「…私も、そう思ってた」
顔を見合わせて笑いあう。
そのまま、とん、と小さく跳ねて、僕らは崖下へと飛び込んだ。
ああ、だけどね、本当はもっと君と生きていたかった。
空を飛べたら、良かったのになあ。
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1945年 日本はミッドウェー海戦での敗戦以来、度重なる米軍の本土攻撃への対策を考えていた。
しかし、以前は空の覇者であったゼロ戦は米軍の新型戦闘機に制空権を奪われ、空を飛ぶこともままならない。
ならば、戦闘機を運び、排出する空母を沈没させるしかない。
そこで考え出されたのが、人間爆弾・桜花である。
それは、爆弾のみを積んだ形ばかりの戦闘機であった。
「桜花、か…」
機体に鮮やかに描かれた桜の花を指で擦りながら、不破雷蔵は呟いた
4月の生ぬるい風の中でも、その花は悲しくなるほどに冷たい。
「綺麗なのは、名前だけだな」
立ち止まった雷蔵をちらとだけ見て、鉢屋三郎は己もまた足を留め、静かに佇む機体を見上げる。
「本土は今頃花盛り、かなあー」
どこか暢気な声を上げて一人夜空を見上げたのは竹谷八左ヱ門だ。
その横顔を見て、三郎は皮肉気に鼻を鳴らして笑った。
「咲く花などあるものかよ。今頃はすべて消し炭になってるさ」
「止めなよ、三郎」
三郎の意地の悪い言葉を黙らせると、雷蔵は八左ヱ門の横に並んでその視線を追いかける。
見えるのは、ただ一面の星空。
昼間には硝煙と炎と怒号と銃声に覆われていたが、今はただちかちかと星だけが瞬いている。
今、この空だけが世界であったならばどんなに平和だろう、と思えるほどに美しい夜空だった。
「きっと、桜咲いてるよ」
「だな」
「ハチの家の庭、大きな桜の木があったものねえ」
「そうそう、毎年綺麗に咲くのはいいんだけど毛虫もたくさんついてなあ」
「ああ、孫兵君だっけ?よく取りに来てたよねえ。そういえばあれって何に使ってたの?」
「あいつは虫が好きなんだよ」
「お前ら…」
雷蔵と八左ヱ門が遠い故郷の話に口元を綻ばせているのに、三郎は呆れた声を上げた。
「暢気なもんだなあ、明日は死にに行くっていうのに」
しかも使い捨ての無駄死にだ、と吐き捨てるように続けられた言葉に、二人は顔を見合わせた。
三郎の言葉は、嘘でも大げさでも無い。
彼ら3人を含めた桜花隊は明日、出撃することになっている。
帰還かなわぬ出撃は、使い捨てと言えるであろうし、誰も表立っては口にしないが、敗戦の色が日に日に濃くなっていく今、
日々数を増すばかりの敵空母を一隻や二隻沈没さしめたところで一体何が変わるというのか。
戦争を続けること自体が無駄なことなのだと、誰もが気付いていて、しかしそれを受け入れられないまま必死に抵抗だけを繰り返しているというのが現状なのである。
「また使い捨て、か…」
雷蔵の呟きに、三郎はびくりと肩を震わせたが、見やった雷蔵の目には、悲嘆も落胆も見られなかった。
「前も、そうだったよねえ、三郎」
ただ、過去を懐かしむ暖かい色だけがその目には輝いていて、三郎は何も言えなくなった。
雷蔵の言う前、とはいわゆる前世というものである。
普通は覚えてなどいないはずのその記憶を、何故か三郎と雷蔵は持ち合わせたまま、再びこの世に生を受けた。
前世において二人は忍として生きて、そして死んだ。
戦忍としての二人の死が平和と安らぎの中にあったはずは無く、一兵として、使い捨ての扱いを受けた挙句の最後だった。
三郎の沈黙が生んだ空白を埋めたのは、朗らかな八左ヱ門の声だった。
「大切な人を守るためだもの、オレはいいよ」
その視線は再び遠い夜空、いや、その彼方にある本土へと向けられていた。
躊躇いの無い八左ヱ門の言葉に、雷蔵は小さく笑い、三郎はそれでもやはり寄った眉根の皺を解くことが出来ない。
「兵助がさ、昨日部屋まで来てさ、すげえ泣いてたよ。お前らにも申し訳無いって」
「……」
「自分のほうが死にそうな面してさ、なんか頬とか削げてたし。飯食ってるのか?って聞いてるのに、謝るばっかでさあ」
「…そっか」
「ほら、あいつお偉いさんじゃん?家柄も頭もいーからオレらん中で唯一出世してさあ。出世して、オレらんこと守りたかったんだって泣くんだよな」
「…うん」
「オレ、あいつ守るために死ねるんならいいよ」
「ハチ…、うん、そうだね」
八左ヱ門は、柔らかく笑んだ。
それは、以前、戦乱の時代に生きていた頃から全く変わらぬ笑みだった。
あの時代の八左ヱ門の生き様を、雷蔵は知らない。
学園を卒業して以来、一度も顔を合わせる事もないままに雷蔵と三郎はその生涯を終えてしまったからだ。
しかし、どんな生き様であったにしろ、この男は最後にはこうして笑って逝ったのでは無いだろうか。
そうであったらいい、と雷蔵は思った。
「そうだね…」