サクラサク
雷蔵の声を聞きながら、三郎は、先ほど雷蔵の指がたどった桜の花の輪郭を同じようになぞった。
桜花。飛行機とは名ばかりのその機体は、積み込みすぎた爆弾の重みで自ら飛び立つことも出来ない。
一式陸攻24型丁に搭載され、敵空母へと近づいたところで切り離される。
まさに生きた爆弾なのだ。飛ぶ、というより落ちるだけの戦闘機。
「前にね、死ぬ前に、空を飛べたらいいなあって思ったんだ」
そう言って戦闘機乗りを選んだ雷蔵が今特攻隊員として再び死ぬために落ちていく。
何の因果であろう。三郎がぎり、と爪を立てると桜の花弁が少し削れた。
三郎は、一式陸攻乗員である。雷蔵を、死地へと送り届ける役目だ。
しかし、自らも生きて帰るつもりなどさらさら無い。
雷蔵と共に、再び空に散るのだ。
それならば、悪くは無い。
政治家が怒鳴り散らしているように、”お国のために”死んでいくつもりなど毛頭無い。
ただ、雷蔵の行くところへついていく。それだけだ。
「桜の下にて、か…」
気がつけば、八左ヱ門と雷蔵が三郎の横に並んで桜花を見上げていた。
呟いたのは、八左ヱ門である。
「桜、咲いてるといいなあ…」
その目に映っているのは故郷の景色だろうか。
例え明日には、散り行くのだとしても、今この時だけでも咲いていれば良い。
それがこの優しい友人の願いならば。
「三郎、雷蔵」
「「ん?」」
同時に振り向いた同じ顔の二人を、八左ヱ門は大きく笑って見返した。
「明日、晴れるといいな!」
花のような、笑顔だった。
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「三郎」
八左ヱ門と部屋の前で別れた後、雷蔵は三郎と同じ布団に包まりながら、小さく呟いた。
己の指先すら見えぬ暗闇の中では、至近距離にある相手の顔の判別もつかない。
けれど、三郎が眠らずにいるのはなんとなく分かった。
「どうした?」
読みがあたった証拠に、即座に返事が返ってくる。
「あのさ、僕ら、次もまた一緒にいられるかな」
「いられるさ」
雷蔵の呟くような疑問に、三郎は強い声音で応えた。
同時に、雷蔵の手を、硬く握り締める。
離さない、と言外に語った。
「そっか…」
その力強さとは裏腹に、しっとりと汗をかいた三郎の手を、雷蔵は握られていないほうの手で優しく撫でた。
「そっか」
瞼を閉じる。闇しか見えなくなる。けれど、手を握る三郎の温度は消えない。
「じゃあ、僕もいいよ」
「雷蔵?」
「君とまた一緒にいられるんなら、怖くない」
「…ああ」
「今度こそ、もっと長く一緒にいたいねえ…」
「ああ…」
緩やかな眠りが二人を包み込んだ。
夜が明ければ最期の朝がやってくる。
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息もつかせぬ、激しい攻撃だった。
三郎は操縦桿を必死に操り、旋回を繰り返してなんとか銃撃を避けてはいるが、
それももう長くはもたないだろう。
もともと戦闘機の性能が劣る上に、桜花を繋いだまま飛んでいることで、速度も、高度も、機動性も、かなり制限されてしまっている。
これまで落とされていないのが不思議なくらいなのだ。
現に、同時に飛び立った18機のうちでも既に何機かは桜花を積んだまま空に燃え、海へと消えていった。
無線を通じて、悲鳴と絶叫とが機内を満たす。
絶望だけが、空を埋め尽くしていた。
「三郎!!」
雷蔵は、額に汗しながら操縦桿を握る三郎の顔を足元の桜花の操縦席から見上げて叫んだ。
「早く切り離せ!」
しかし、三郎は雷蔵の声など聴こえないとばかりに、ひたすら前だけを見つめて操縦桿を操り続ける。
「三郎!このままじゃ君も…!」
そのとき、雷蔵の声を遮って爆音と衝撃が、二人の乗る戦闘機を襲った。
衝撃が衰えぬうちから、高度が下がりつつあるのがレーダーの見えない雷蔵にも分かった。
「三郎!!!」
操縦席の三郎は、この時ようやく雷蔵を見て、にっと笑った。
「雷蔵」
「なに…」
「最後まで、お前といられて良かったよ」
かつて貰った言葉をそのまま返せば、雷蔵は瞬間目を見開き、しかし次いでほころぶように笑った。
「…僕もだよ」
がくん、とさらに高度が落ちた。時間が、無い。
三郎は再び前方を睨みつけると操縦桿を前へと倒した。
少しでも、敵空母へ近づくために、もはや敵の攻撃などかまわずにただひたすらまっすぐに飛ぶ。
「雷蔵…!」
「うん!」
風防越しにも風の唸りが聞こえた。
春なのに、冷たい風だ。
桜が、散らなければ良いけど。
強い風を感じながら、雷蔵は思った。
八左ヱ門はもう逝っただろうか。
ゴーグル越しに見た空は、どこか遠い世界のようだ。
「出撃用意完了!」
雷蔵が叫ぶと、三郎は小さく頷いて、左手をレバーにかけた。
「雷蔵」
「?」
「私も、すぐにいくよ」
左手に力をかける。雷蔵を乗せた桜花が切り離され、その直後、ロケットエンジンが点火し、見る間に遠ざかっていった。
軌跡が白い帯を引いて空を漂う。
その後を追うように、帯を辿って三郎も飛んだ。
被弾した跡から燃え始めた機体は既に全体が高温に包まれて息をすることもままならない。
それでも、ただ、まっすぐ、雷蔵の跡を追って、三郎は飛んだ。
三郎の機体から切り離された雷蔵は、風を切る激しい音と衝撃の中にいた。
操縦桿を握り締めてはいるものの、もはや機体を操ることなど出来はしない。
すさまじい速度の中で、奥歯をかみ締め、ひたすら前を見据える。
豆粒ほどの大きさだった敵空母が、だんだん、近づいてくる。
黒い、塊。それはまさしく雷蔵の死が近づいてきていることを示していた。
「さぶろう…」
かみ締めていないとかたかたと震えてしまう歯の隙間から、搾り出すように雷蔵は呟く。
「…ばかさぶろう…」
ゴーグルの中に冷たい雫が溜まって、隙間から逃れたものが頬をつたった。
「また、ね…」
目の前に迫った黒い塊。
大丈夫、その先に君がいるなら、怖くは無い。
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初夏の気だるい昼休み。
ある高校のある教室のざわめきの中で、ひときわ明るく大きな声が響いた。
「でさー、夏休みにどっか行かね?って話してたんだよ」
な、と同意を求めるように竹谷八左ヱ門は不破雷蔵を見る。
不破は、そうそう、と笑って応えると、どう?と隣に座る男に声をかけた。
「まあ、いいんじゃないか?」
問われた鉢屋三郎は適当な相槌を打ったが、続いて「どこ行くんだ?沖縄とか?」と立て続けに言った。
どうやら乗り気であるらしい。
しかし、それに対して「ダメだ!」と大声を上げたのは八左ヱ門に隣のクラスから引っ張ってこられた久々知兵助だ。
「沖縄はダメだ!」
突然の剣幕に目を丸くする3人を省みもせず、再び大声で拒否の意を示す。