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旅立ち集 ハイランダー編

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不自然な黒い染みがある。

染みはかなり大きく、それが血であるとはすぐにわかった。


「怪我しているの?」

「えっ? いや、これは……。血は止まらないけど、なんでもないんです」

「なんでもなくないだろ!」

思わずウィルは、女の手をとった。

「えっ? あのあのあの……、何を?」

「怪我をしている人を放ってはおけないよ。もし壊死したら、腕を切り落とすかもしれないよ」

「えっ! う、ううう、腕を切るって、盗まれるっていうこと?」

「家に来れば手当てしてあげられる。さぁ。行こう」

ウィルは手をぐいっと引いて歩き出し、廃墟から連れ出した。霧はすっかり晴れ渡っていたが、重々しい暗雲がハイランドの空に覆っていた。


※※※※



ウィルは怪我をした少女と帰路についていた。

集落地を過ぎ、花の群生する草地の下り坂を歩いていれば、やがて紺碧の湖が見える。


「そういえば君、名前はなんていうの?」

「え? 名前、ですか?」

きょろきょろと挙動不審に辺りを見回していた女が、まるで銃撃を受けたかのような勢いでウィルへ振り返った。


(――そんなに驚くようなことかな?)


「ええっと、私の名前は……」

それからも女はもごもごと口を動かすが、ウィルには聞き取れなかった。

そうこうしている間に、湖の前に建つウィルの家が目前に迫っていた。

「ん?」

ウィルは気付いた。

一頭の馬が自宅の前に止まっていたのだ。

父の馬ではない。

もしそうなら馬小屋に戻されるだろうし、父は馬腹に矢筒なんて吊さないはずだ。


(――もしかして……)


木戸を開けると、真っ先に飛び込んだのは弓だった。


手作り感は漂うが精巧にできた木製の弓。弛みなくぴんと張られた弦が湾曲した弓をぴしりと伸ばしている。


「マクさん」


思わずウィルが呟くと、弓を背に担いだその人物は、玄関間の方へ振り返った。


「やぁ。おはようウィル君。早朝からお邪魔して悪いね」


すらりとした長身がウィルを見下ろした。

ひきしまった体躯だが、その輪郭は母同様に成熟している。服装こそウィルと変わらないハイランダー伝統のものだが、マクは女性である。


切れ長な目に、墨のように黒い短髪が特徴の、族長の孫娘である。


ローランドにいる男なら彼女の容姿に目を奪われるだろうが、ウィルを含む闘争心を秘めるハイランダーは美貌よりも彼女の武功を尊敬していた。

マクはハイランドで右に出る者のいない弓手で、その腕前で幾度も牛泥棒を追い払ったことがある。


「ちょうどよかった。君に聞きたいことがあって」

「なんでしょう?」

「昨日モンゴメリーさんの牛を届けたらしけど、もう一頭について何か心当たりはないかな?」

「すみません。僕が見つけたのは一頭だけなんです」


ウィルの返答を聞くと、マクは特に落胆するわけでもなく、愛想のいい微笑を浮かべて頷いた。


「そうか。わかったよ。私も少し牛を探してみる。牛泥棒の仕業かもしれないし、もしそうなら見過ごせない。牛泥棒なら歩きやすい下り坂の方へ逃げるだろうから、そこを調べてみるよ」

「よろしくお願いします」

「うん。それじゃ、失礼したね」


ウィルが見送るなら、マクは馬に跨ると手を振って去っていった。


「……マクさん、もう行ったの?」

声に振り向くと、なにやらむっつりとした顔のモリガンが、壁から玄関間を覗き込んでいた。


「朝っぱらから来るなんてビックリしたよ。髪とめる暇もないじゃんか」


言いながらモリガンが三つ編みを縛る。


「わっちあの人苦手だ。一緒にいると窮屈だもん」


ため息まじりに言うモリガン。

マクは族長の孫である。

礼儀から規律まで厳しく躾られた彼女とは、お転婆なモリガンにとって相性が悪いのだろう。


「それにしても遅いぞ。兄貴がなかなか帰って来ないから、わっち一人でマクさんの相手をしなきゃなんなかったろうが」

「ごめんよモリガン。ちょっと人に会っていたんだ……。あれ?」

ウィルが背後を見るが、そこに女の姿がない。さっきまで傍にいたというにどこへ行ったのだろう。と思った矢先、外壁に密着していた木戸の裏から女がひょっこりと頭を出した。


「そんな処でなにやっているの?」


女はおどおどとした様子で、マクの去った方向を見ていた。


「あ、あの人、牛泥棒を捜すって言っていませんでしたか?」

「そうだけど、それがどうしたの?」

「だ、大丈夫かなぁ~、っと思って……」


なにやら引きつった笑顔を浮かべる女。マクのことが心配なのだろうか。


「大丈夫だよ。マクさんなら、馬に乗ったまま飛んでいる鳥だって射抜けるんだから」

「え!」


またも女は猛烈な速度でウィルへ振り向く。


「牛泥棒を見つけたら、すぐにやっつけてくれるよ」

「や、ややや、……やっつけ、られちゃうぅ?」

「ど、どうしたの?」


あたふたと目が回ったかのように慌てまくる女。まるで鷹に怯える兎のように身体を震わしている。


「なぁ兄貴。さっきから誰と話しているんだよ」

「モリガン……」


と、ウィルが少女から目を反らしたその一瞬。どさり。と、なにやら鈍い音がしたと思うと、女が倒れているではないか。


「ど、どうしたんだ?」

ウィルが抱き起こすと女は気を失っていた。身体を揺すっても目覚めそうにもない。


「誰だよその人? どこから拉致したんだ?」

「拉致してない! モリガンも手を貸せ!」


兄妹は二人で女を抱え、家の中へ運ぶ。

ようやくベッドに寝かせると、モリガンも女の怪我に気付きどこからか包帯や消毒液を持って来る。

その間にウィルは彼女の来ていたマントを、無意識にモリガンのベッドに置いた。


「なぁ。兄貴。この人誰?」

「俺も知らない」

「はぁ? 見ず知らずの人を連れてきたのかよ?」

「だって、怪我をしていたし……」


 そう言いながらもウィルは女の顔を見るが、やはり見覚えがなかった。

 ハイランドは人口が少ない。ウィルの近辺だけでなく集落は様々に点在するが、見覚えのある人ばかりなのだ。 それになぜ教会堂の廃墟にいたのか。


(――本当に、誰なんだろうこの人?)


「手当が終わったぜ。よく見れば綺麗なお姉ちゃんだな。ぐっすり眠って、夢でも見ているのかな?」

「夢ね……」

「ところで兄貴、」


生返事をするウィルに、モリガンが問う。

「なんだ?」

「卵はどうしたんだ?」

「ああっ」


 モリガンに言われ、ウィルは卵を廃墟に置き忘れたと気付いた。それを聞いたモリガンは、「早く取りに行け」と怒鳴り、ウィルの尻を蹴飛ばして外へとたたき出すのだった。



No2へ続く
作品名:旅立ち集 ハイランダー編 作家名:春夏