旅立ち集 ハイランダー編
――薄霧を突き抜けると、まばゆい初夏の陽ざしを溜めた紺碧の海が現れ、
その前方には緑の大地が広がる……
……起伏のない草原の果てには、
霧に頂を包まれた、
峻険な岩山が連なっていた――
その言葉は、ある交易商人が初めて ‘霧の孤島’ を目撃した時のもの。
霧の孤島は、南部に広がるローランドとよばれる低地エリアと、北部のハイランドに分けられる。
はっきりとした境界線はないが、ローランドでもハイランドに近づくにつれて起伏の激しい丘陵地が続く。
海に面するローランドには、琥珀や絹、塩やワインを積んだ交易船や、荒くれた漁師が乗る捕鯨船の寄港地として知られた港がある。
さほど大きな港町ではないが、それによってローランドは栄えていた。
対するハイランドは荒涼地が半分を占め、豊かな土地とはいえなかった。
せいぜい大麦が少しばかり栽培でき、羊と牛の牧草地が点在するだけだ。
ハイランドで生まれる若者の多くが、二十歳になるとローランドへ下り、海外に出稼ぎに出る。妻子を連れて帰って来る者もいれば、一生帰らぬ者もいる。
働く先は、近隣国の正規軍がほとんどだ。
ハイランドの若者は傭兵としてではなく、飛び級のように最初から正規軍として迎えられる。
その理由は霧の孤島の歴史がかかわってくる。
霧の孤島は、古くから他民族や文明国の侵略を受けてきた。
北海の海賊と戦争に突入した時代もあれば、文明国から植民地支配を受けた時代もある。その度にローランドとハイランドの民は果敢に侵略者と戦った。
だが、今では何世紀も昔の話だ。
争いのなくなった霧の孤島では、ローランドの民は武器を捨てて交易商となり、辺境の地に暮らすハイランドの民は、古き戦闘民族としての血統を残し続けた。
その戦闘力と人智を超えた錬磨の技は、他国からも高く評価され、戦争が火器を主力にする時代に入っても大きな需要があった。
それ故、最初から正規軍という立場が得られるのだ。
今。ハイランドの断崖に向かって歩くウィルもまた、その血筋を受け継ぐハイランダーの一人であった。
※※※※
盛り上がった草道の向こう側から、強い磯の匂いが漂ってきた。
そのまま歩き続けるとぱっと視界は開け、ウィルの目下に大海が広がった。
息を呑む落差を持つ断崖は百メートル以上ある。
押し寄せる荒波が険しい絶壁に当たっては砕け、その音が足元からこだまする。
晴れた日は波の飛沫で虹がかかるが、今日は暗雲が垂れ込めている。
崖隅には、ぽつんと石造りの砦が建っている。
大昔、この絶壁はヴァイキングの侵入経路だった。
船を絶壁につけ、海上からこの崖まで登って来たのだという。そのため砦を設けて見張りを常駐させたのだ。
現在は使われていないが、ある老夫婦がこの砦を住居代わりにしている。
「おはようございます」
木戸を叩きウィルは中に入った。
玄関間に立つと、ウィルは再度、しんとしている室内に声をかけるが返答はなかった。
しばらくしても人の動く気配は感じない。いつもならすぐに気付いてくれるというに。
ウィルは不審気に室内を見回し、そして聞き耳をたててみた。
不意に、暖炉の薪石がパチンと音をたてて弾け、それにつられるように居間を見る。
暖炉の手前には椅子が二つあり、その背中には格子柄のカーディガンがかけられている。
それと同じ模様の絹が、天井に張りめぐらされた紐からつり下げられ、視界を遮っている。
ウィルが左手の居間から目線をそらし、右手の寝室を見たとき、
「帰れ! この牛泥棒めが!」
と、聞き慣れた罵声が飛んできた。
見ると玄関間の正面、かすかに家畜臭の漂う扉から、剣を構えた老人が現れた。
顔は陽に焼けて黒く染まり、その表情は今にも切りかからんという怒気に満ちている。
だが、ウィルの姿を見るなり大きく息を吐き出し、剣を収めた。
「なんじゃウィルか! 来たなら来たで腹の底から声を出さんか!」
老人は部屋中の物が揺れるような怒鳴り声で言った。
「おはようございますオーウェルさん。相変わらずすごい声ですね」
「地声だバカ者」
この老人は挨拶や世間話など、空虚な会話を憎悪しているかのように無駄話を嫌っている。
ウィルもそれを知っているので、早々に要件を伝えた。
「あの、卵をもらいに来ました」
「はん。またか。用意するから十秒待ってろ。…………メアリィー!」
オーウェルは奥の扉に向かって誰かの名を叫んだ。
しばらくすると、彼よりも背の低い、少し腰の曲がった老婆が出てきた。
「そんな大声を出さないで下さいな。ひな鳥達が驚くじゃありませんか。……あらウィルちゃん来ていたのね。ちょうどよかったわ。今卵が産まれたところなの」
ウィルが老婆のもとへ歩み寄ると、老婆は手に持った小さなバスケットを渡した。
絹で包まれた中には、ツメノドリの卵が四個も入っていた。
「ちゃんと感謝していただきなさい。それから身体を冷やさないようにって、お母さんに伝えておきなさい」
「いつもありがとうございます」
「わしにも腹の底から礼を言え。それから無言で家に入るとは親父からどんな教育を受けているんだ! 牛泥棒と間違えて切り殺すところだったぞ!」
「す、すみません……」
「だまらっしゃい、くそ爺。だいたいうちは牛を飼っていないでしょうが」
「去年まで飼っていた!」
「もう殺して食べたでしょ」
この老夫婦は、絶壁で営巣する海鳥を捕まえ、家畜小屋で飼っている。
ウィルは数ヶ月前からその卵を毎朝もらいに来ている。
金は払っていない。
この老夫婦は無償で彼に卵をくれるのだ。
ウィルの家族が断っても、老夫婦はそれを頑としてやめない。
一度だけ取りに来るのを忘れたとき、オーウェルが自宅に乗り込んで卵を投げつけるように置いていったことがあるほどだ。
「そろそろお母さんの様子も見に行きたいんだけど、最近天気が悪くてなかなか行けないのよ」
「いいんです。母さんは元気ですから、あまり無理はしないで下さい」
「そうね。でも近いうちに見に行くわ。さぁ。早く帰って食べさせてあげなさい」
「そうだ。さっさと帰れ……」
ウィルが帰ろうとしたとき、彼はオーウェルが手で眉間を抑え、あくびまでしていることに気付いた。
「なんだ? じろじろ見やがって」
「いや、あくびなんてして、どうしたのかなって」
「うむ。昨晩変な声が聞こえて、あまりにうるさくて眠れなくてな」
「変な声、ですか?」
「うまく聞き取れなかったが、何か助けを求めるような声だった」
珍しく神妙な声色のオーウェルに、メアリーが呆れながら言った。
「どうせ海鳴りか何かでしょう。それでこの人ったら、家を出て声の主を捜しに行くのよ」
「海鳴りじゃない。俺はずっとここに住んでいるが、あんな音は初めてだ。だいたいメアリー。お前はどうして声に気付かなかった?」
「あんたの声がうるさいから、聴覚が狂ったんでしょう」
「こいつまたそんなことを……」
オーウェルは苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
作品名:旅立ち集 ハイランダー編 作家名:春夏