旅立ち集 ハイランダー編 No2
次にくるのは怪物の反撃だった。肘を後ろに引いてから、腕を槍のように突き出した。指先の爪は剣のように鋭く、ウィルは反射的に身をよじって回避するが、怪物の爪は左の額をかすめた。
たまらずウィルは横転する。開眼すると血が左目に流れ、視界が赤く染まる。ただ爪でひっかくような攻撃ではない。剣の刺突に匹敵するような一撃だった。
続いて怪物は両手を地面につけ、背中をエビ反りにすると、空に向かって大声で吠えた。
その声がウィルの頭を狂わせる。脳内で誰かが鎌を振り回すような痛みが襲いかかり、ウィルは頭を抱えて悶絶した。
咆哮は途切れることのなく、そして声を上げる時だけ、女の背中に生えた二対の翼が左右に広がり、声を飛ばすように微風を送っている。
(――なんだこの声……!)
「兄貴ぃ!」
声を遮るように届いたのはモリガンの声だった。それがウィルの気力を一時的に回復させる。ウィルは折れた剣を怪物に目がけて投げた。
怯んだ怪物が咆哮を止める。
これを好機と、ウィルはなりふりかまわず階段へと走りモリガンを抱き上げ、ふらつく足で階下へ降りる。
「無茶すんなよ兄貴! 死んだらどうすんだ! だから逃げようって言ったんだぁ!」
「…………!」
「兄貴、大丈夫?」
「大丈夫だモリガン。心配するな……」
「わっちじゃなくて、兄貴の方が心配だよぉ!」
ウィルは息を切らしながらも進む。
段差を降りる些細な衝撃が、頭をずきずきと痛めつけ、気の遠くなるような感覚がウィルを覆い始めた。
ずる。
ずるずる。
ずるる。
「兄貴、後ろ!」
ウィルはモリガンが何を言いたいのかわかっていた。怪物が迫る音が彼の耳にも届いていたからだ。
螺旋階段の上から、手を伸ばして這い寄る怪物は、確実に近づいていた。
怪物の真っ赤な両目がモリガンを見る。
腕が伸びる度に怪物はその分だけ這い進み、下半身の尾ひれがびたびたと粘液をまき散らしている。
背中の翼は折りたたまれ、狭いこの空間でも邪魔にならない。
「兄貴?」
ウィルの足は徐々に遅くなっている。
息は上がり、自分を抱く腕もがくがくと震えている。
「だい、……じょうぶ……」
(――このままじゃ捕まる……)
モリガンを心配させたくなかったが、ウィルも体力の限界に感づいていた。追いつかれるのも時間の問題だが、ここで怪物と戦っても勝機はない。
「歌わせて……。私に歌わせて」
見れば頭上から怪物が迫り、その距離は縮まりつつある。ここでもう一度咆哮されたらおわりだ。
どうすればいい。
どうすれば逃げ切れる?
(――なんだ?)
ウィルは足元から霧が登ってくることに気付いた。ここは石壁に囲まれた螺旋階段である。密室でここまで霧が登ってくるとは考えにくい……。
いや。
待て。
ここには外と繋がる処があったはずだ。そこからなら逃げられるのではないか。ウィルが階段の中程まで降りると、やはりそこに逃げ道はあった。
「モリガン、出口があったぞ」
「え?」
「ここから逃げられる」
ウィルが顎でさしたのは、石壁が崩落し人一人が通れそうな穴の開いた処だった。ここから外へ出られる。あの怪物の大きさなら通れないが、自分達なら十分だ。
「待てよ! ここ高いよ! 死んだら落ちちょうよ!」
「それを言うなら、落ちたら死んじゃうだ」
ウィルは慌てるモリガンを見て笑う。
確かにここは高い。穴から見下ろしても霧が漂っているせいで何も見えないほどだ。だがこのままではあの怪物に捕まってしまう。
一か八か。足の震えを抑えて試すしかない。
ウィルは己を勇気づけるように呟いた。
――総じて正義であれ
何が正義なのかわからない。だが妹を守ることが兄としての正義だと、ウィルは確信していた。
ずずぅっと。
怪物の這う音がすぐ背後で聞こえる。
「歌わせて。私の歌を聞いて」
怪物が開口する。
「兄貴、ダメ!」
咆哮が二人の耳を貫こうとするその直前、ウィルは妹を包み込むように抱くと背中から穴へ入り込み、城壁の外へと身を投げた。束の間の浮遊感の後、とてつもない衝撃がウィルの背中を襲った。
No3へ続く
作品名:旅立ち集 ハイランダー編 No2 作家名:春夏