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旅立ち集 ハイランダー編 No2

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「よかった……」

「やめてよ兄貴、身体が痛いんだ。血が出てるし、頭がくらくらするんだ……」


ウィルはモリガンの足元に血溜まりができていたことを思い出す。よく見れば衣服も引き裂かれ、露わになった手足には生々しい傷痕がついている。


「兄貴ぃ……」


そこでモリガンの声が聞こえる。その声は紛れもないモリガンの声だが違う。

なぜならモリガンは目の前にいる。

にもかかわらず、その声はウィルのすぐ背後、振り返って手を伸ばせば届くような、間近な距離から聞こえたのだ。


「お前、妹に何をした?」


ウィルはゆっくりと振り返ると、背後に立つ女を睨んだ。ひぃっと、女を見てモリガンが怯え、ウィルの身体にしがみつく。

この女がなぜ妹と同じ声を出せるのか。それも疑問だったが、そんなことどうでもいい。


「俺の妹が、あんたに何をしたっていうんだ?」

「盗んだのよ」


女は毅然と答えた。


「この子が私のマントを盗んだの」


その答えにウィルは激昂する。


「俺の妹はそんなことしない! だいたい盗まれただけであんたは相手を傷つけるのか!」

「……殺さないわ。だってウィル君のことは許せたもの」


意味深な言葉に、ウィルは戸惑う。


「俺を、許せた?」

どういうことだと問いただす暇もなく、女は続ける。


「貴方も盗んだ。でも綺麗って言ってくれたから嬉しくて怒れなかった。もしかしたら、私は変われるんじゃないかって思えた。でも無理。血には逆らえない……」


残念そうに言うと、女はウィルと目線を合わせたまま後退った。


「泣いているのか?」


女はなぜか、涙を流しながらうっすらと微笑を浮かべていた。


「その子の血だけじゃ、足りなかった……」

「足りなかった、だと?」


妹を傷つけた張本人なのにもかかわらず、ウィルには女の姿が儚げに見え、初めて女に会った時に聞いた、透き通るような美しい歌声を思い出していた。

女の姿が徐々に霧に包まれ、ついに輪郭すらもつかめないほど離れていく。


「血ってなんのことだ?」

「貴方には見られたくなかった」

「なにをだ?」


それがウィルの見た、女の最後の姿だった。


「さようなら」


次の瞬間、ウィルは妙な衝撃を感じ取った。その場にいた者にしか感じ取れないような、空気の流れの変化とかすかな振動である。そして嫌悪的な不気味な音が彼を恐怖させた。

ここにいてはまずい。危険が迫っている。


「逃げるぞ、モリガン!」


ウィルはモリガンを抱きかかえると、階段を目指して走り出した。


「怖いよ兄貴ぃ!」

「心配するな! 俺が絶対守ってやる!」

ごきり。ぶちり。ごりごりごりと、走る最中に女の消えた方向から不気味な音が聞こえる。

肩越しに一瞥すると、そこに女のシルエットが見え、思わずウィルは立ち止まった。


影の形がおかしい。彼女の身体が、腰部で折れ曲がっていたのだ。背中が海老のようにぐにゃりと反り返り、膝はがくがくと震え、指先は地面に触れている。

口からは彼女の声とは思えない、低く、牛のような鳴き声が途切れることなく漏れている。

曲がり続ける背中はやがて垂直に近づき、ぶちりと、内臓が千切れたような音が女の絶叫に混じる。

モリガンも悲鳴をあげる。ばたばたと足を振り、必死にウィルの首にしがみつき、彼の胸で涙を拭っている。


「早く逃げようよ!」


妹を抱え直すと、螺旋階段を下り始めた。

だが足を止めた。


「どうしたんだよ?」


ウィルは迷った。アイツからは確かな敵意を感じる。間違いなく襲いかかってくるだろう。

ならば妹だけを逃がし、ここで戦うべきかもしれない。モリガンを抱えていれば狭い螺旋階段で背後から襲われる。それこそ危険だ。ここで迎撃した方が安全ではないか。

ウィルは剣術に自信がある。屈強な父を相手に毎日のように稽古しているのだ。相手を傷つけずに倒す技量だってある。正体が何だろうと、自分の剣で急所を一撃できるのではないか。

逃げるか。

それとも戦うべきか。

ほんの一瞬間をあけ、ウィルはモリガンを下ろした。


「俺は戦う。お前だけ逃げろ」

「やだやだやだぁ! 兄貴も一緒に逃げようよ!」


モリガンに手を引かれるが、ウィルはそれを振り払い、「早く行け」と背中を押し、女へ振り返った。

変化はますます進んでいた。身体の構造を無視するような動きは、まるで誰かに操られる人形のようであった。

背中に引っ張られる女の腹部が、不気味に動いた。

正確には、彼女の腹が体内から押し出されている。

衣服の内側では腹の皮膚にミミズ腫れのような膨らみが這いずり回り、外側に突き出ようとしている。

ウィルは絶叫を呑み込んだ。


女の腹が割け、鮮血にまみれた黒い塊が地面に飛び降りた。何かが産まれた、というよりも、寄生していたモノが宿主から抜け出たというべきだろうか。

黒い塊には無数の管が伸び、それらは女の身体に繋がれている。まるで胎児と母親を繋ぐへその緒のようだった。

破裂した女の身体は急にミイラのように萎むが、それとは対称的に、小さな肉塊からはぶくぶくと表面が泡立ち、風船のように膨張し始めた。

塊が女の身体から体液を吸い取っている。


膨張を続けると、やがてそれまで円形だった肉塊から、形をもったものが生え始めた。腕だった。肉塊は胴体となり、そこを基盤に次々に頭部や翼、尾が生えていく。


「ウィル君……」

声がした。ただの肉塊に思えた『怪物』が喋った。

燃え尽きた薪土のような灰色一色の上半身。乳房らしきふくらみと、くびれた腹から女性と思わせる輪郭だ。

頭からは毛先から粘液のしたたる紺青の長髪と、それに隠れたナイフのように鋭い赤い瞳が見える。

脇腹には骨の輪郭が生々しく浮かび上がっており、腕も骨と皮だけに痩せこけていた。

そして下半身には足がなく、代わりに魚の尾ひれのようなものが生え、尾の先はびたびたと振られていた。


「私に歌わせて……」


これがあの女の正体だと、ウィルは察した。


(――ここで倒す!)


ウィルは剣を抜いた。怪物は異様に細長い手で地面を這い、ずるずると尾ひれを引いてこちらに迫ってくる。

尾ひれからは海水の臭いのする不気味な粘液が流れ、それが足跡を残すように地面を濡らしていた。

幸いと言うべきか、怪物は動きが鈍重だった。


ウィルは走りながら剣を下段に構え、怪物の首を狙って切り上げた。霧中であろうと首を狙った正確な一撃だった。ウィルも攻撃を終える直前までそう思っていた。

が、次の瞬間。ウィルは己の迂闊さを知った。切り上げた剣が折れていたのだ。少し間をおいて、どこかで折れた先端が落ちる乾いた音が響く。


怪物の首は繋がっている。よくみれば怪物の体表には鱗で覆われ、自分の一撃が命中した場所の鱗には、かすかに傷がついていた。


(――なんて堅さだ……!)


ウィルの攻撃は失敗におわった。